穢れ思想とつくられた母親像から見えた放射能問題 — 「現代化」問われる日本社会

2012年03月26日 16:00
石川 公彌子
日本学術振興会特別研究員 博士(法学)

放射能をめぐる非科学的な過剰不安

女児の健やかな成長を願う桃の節句に、いささか衝撃的な報道があった。甲府地方法務局によれば、福島県から山梨県内に避難した女性が昨年6月、原発事故の風評被害により県内保育園に子の入園を拒否されたとして救済を申し立てたという。保育園側から「ほかの保護者から原発に対する不安の声が出た場合、保育園として対応できない」というのが入園拒否理由である。また女性が避難先近くの公園で子を遊ばせていた際に、「子を公園で遊ばせるのを自粛してほしい」と要請されたという。結果、女性は山梨県外で生活している(詳細は、『山梨日日新聞』、小菅信子@nobuko_kosuge氏のツイートによる)。

昨年6月といえば、首都圏でも日常生活が落ち着きを取り戻した頃である。だが一部の母親は依然として、子の被曝を防ごうと過敏になっていた。学校に手作り弁当を持参させ、深夜に食材を求め奔走する様子を紹介した『AERA』記事「見えない『敵』と闘う母 放射能から子どもを守るために」が話題になったのもこの頃であった。

現在は食品をめぐる不安も解消されつつあるが、一部の人びとは過剰な不安を抱えたままである。沖縄の子に青森から雪を届ける恒例のイベントが少数者の反対で中止に追い込まれた件も記憶に新しい(詳細は『週刊ポスト』「沖縄での青森の雪拒否事件 騒いだ人の多くは本州出身避難者」)。

検査の結果、雪に放射性物質は付着しておらず、被曝の危険性は皆無であるにもかかわらず行政側の説明は聞き入れられなかった。山梨県での事案でも同様に、おおよそ問題のないレヴェルの放射線量の空間で生活していた避難者との接触により被曝することは、科学的に考えればありえない。それならば、なぜ避難者や青森の雪が忌避されたのか。

現代に蘇った前近代的概念「穢れ」

エンガチョという子どもの遊びがある。「汚い」ものに触れてしまった子はその部位を別の子にこすり付ければ「穢れ」から逃れることができる。しかし、ターゲットとなった子は「エンガチョ」と叫び、仲間内で決められた印を結ぶとそれを防御できる。年代や地域によってさまざまなバリエーションがあり、エンピ、バリアーなどと呼ぶこともある(ちなみに筆者は「エンピ」世代だが、保育園に通う筆者の子どもたちは未体験らしい)。

歴史学者の故・網野善彦氏によると、エンは穢や縁の意、チョは擬音語のチョンの省略で、「縁(穢)を(チョン)切る」という意味であるという。子どものエンガチョはたわいもない遊びであり、エンガチョされた子がいやがるそぶりを見せれば、そこで終わる。対照的に、エンガチョが差別や人権侵害にまで発展したのが前述の山梨県や沖縄県の事例である。

「穢れ」とは神道や仏教における観念であり、清浄ではなく汚れて悪しき状態を指す。とくに死、疫病、出産、月経や犯罪によって身体に付着するものであり、個人のみならず共同体の秩序を乱し災いをもたらすと考えられたため、穢れた状態の人は祭事などに関われずに共同体から除外された。

被災者・避難民のみならず、被災地のがれきや青森の雪までも排除するのは、まさに震災と原発事故という災いによってもたらされた「穢れ」が共同体の秩序を乱すことを恐れ、自分たちの共同体の清浄を保ちたい望む前近代的心性ゆえである。

「イエ」の変化の中で「つくられた母親像」が登場

このような前近代的心性が、なぜ現代に先鋭化したのか。その手がかりは、大正末から
昭和初期にかけての社会変動にあると、筆者は考える。日本の伝統的な家族観においては「イエ」は企業体に近いものであり、家族とは家業を共にするメンバーのことであった。元来、血縁はかならずしも重視されていなかったのである。血のつながらない子を引き取って育てることは頻繁に行われており、養育できない親がそれを見越して子を捨てる「捨て子」も珍しくはなかった。

だがこの時期、都市化と村落共同体の解体により小家族化が進行し、「家族=血のつながった肉親」とする血縁至上主義の傾向が強まった。さらに昭和恐慌下で農村が荒廃して近代のイエ制度は危機に瀕し、その後日中戦争から太平洋戦争にかけての戦時下では徴兵で男性がイエから引き離され、イエが変容させられていた。

その過程において、来るべき総力戦に向けて女性の役割も期待されるようになり、イエを支える新たな「伝統」としての「母性」が求められたのである(その結果、大正末から昭和初期にかけて母親の育児負担が高まり、追い詰められた母親による母子心中が激増した。この流れに警鐘を鳴らしたのが民俗学者の柳田國男である。詳しくは、拙著『<弱さ>と<抵抗>の近代国学 戦時下の柳田國男、保田與重郎、折口信夫』(講談社)参照のこと)。

戦時下「つくられた母親像」と戦後の日本社会

それゆえに、この時期に「母性」をめぐる社会制度や習慣が成立した。たとえば、1931(昭和6)年には、「地久節」すなわち皇后誕生日である3月6日が「母の日」と定められた。1933(昭和8)年の皇太子(現・天皇)誕生は、「母の日」キャンペ―ンの絶好の機会となった。しかもこのような母性礼讃は、戦局の激化とともに強化されていった。

戦時下では、「母である女性」という言葉が躊躇なく用いられ、家庭運営、とりわけ育児の責任は女性に全面的に課せられた。「母性」はさらに「国家的母性」へと収斂され、女性の生き方は「母性」に限定された。戦時下の絶対的な米不足を背景に代用食としての郷土食や玄米食が推奨され、家族の栄養摂取と健康増進は「主婦」の責任とされたのである。

このような状況下で、女子教育においても国策に忠実な「母性教育」が行われ、婦徳、貞淑礼節と母性の涵養が説かれた。かくして、国家のみならず婦人雑誌を中心としたメディアにも後押しされ、母子の結合は聖化され強要されていった。家族、とりわけ子の食と健康に責任を負うのが母の務めという意識は、戦時下の産物なのである。

1940年代に入ると、総力戦体制下で重化学工業が重視された。ここで確立されたのが終身雇用・長時間労働のサラリーマンと専業主婦がセットになった家族モデルである。この家族モデルが夫婦と子ども二人という標準家族として一気に広まったのが高度経済成長以降であり、長期不況下で現在、我々が直面しているのがそのモデルの崩壊である。

放射能パニックと「勝ち組」母の動揺

すなわち、放射能問題の根幹には前近代的な「穢れ」思想と近代的な家族観・母性概念の奇妙な結合が存在しているように、筆者には思える。しかも、子の被曝を恐れて産地を選んで割高な食品を購入し避難も厭わない母親の姿は、それだけの時間的・経済的余裕がある「勝ち組」家庭であることを意味する。もはや、標準家族であることは「勝ち組」なのである。「勝ち組」としてのみずからのあり方を侵害されたくないという心性が、秩序を乱しかねない「穢れ」の忌避に向かっているともいえるかもしれない。

もちろん、筆者には放射能パニックに陥った母親のみを責めるつもりはない。福祉コスト削減のためにも標準家庭を必要としているのは国家と社会の側であり、父親たち、ひいては男性自身が母親たちに過剰な母性を強いているからである。

放射能問題の解決には、現代の科学的知識・知見によって冷静に判断すること、前近代的穢れ思想と近代的家族観・母性概念から脱却すること、という母親の、ひいては家族の「現代化」が必須なのである。そして、それこそが震災からの復興を支援し、時代の変化に即した国家や社会のあり方を国民全体で冷静に考え直すことにつながるはずだ。

その「現代化」の姿はまだ明確ではなく、我々一人ひとりが模索している最中である。しかし、そこでは日本近代思想史においてくり返し問われた、国家や社会のさまざまな呪縛から解放された「個の確立」――個人と共同体との関わり方――が改めて問われることとなろう。

石川 公彌子(いしかわ くみこ) 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)。専門は日本政治思想史、政治学、死生学。現在、日本学術振興会特別研究員。著書に『<弱さ>と<抵抗>の近代国学 戦時下の柳田國男、保田與重郎、折口信夫』(講談社選書メチエ、2009年)。@ishikawakumiko

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