福島の議論はなぜ決着がつかないのか:科学の限界と科学者の責任

2015年01月13日 17:00
越智 小枝
相馬中央病院 内科診療科長

不安と諦念の飽和

原発事故から3年半以上がたった今、福島には現在、不思議な「定常状態」が生じています。

「もう全く気にしない、っていう方と、今さら『怖い』『わからない』と言い出せない、という方に2分されている印象ですね」。福島市の除染情報プラザで住民への情報発信に尽力されるスタッフからお聞きした話です。

私の住む相双地区(福島県浜通り南部の相馬市、双葉郡)に住むことを選ばれた方の中でも、必ずしも安心が得られているわけではありません。今でも魚は産地に限らず1匹も食べない、洗濯物は外に干さない、という方もいらっしゃいます。

「いろいろ説明を聞いてきたけど、都合の悪いデータは全部隠して説明されている気がする」。放射能の恐怖について何も言わない方々でも、よく聞いてみれば、このような発言が聞かれることも多いのです。

一方で、福島の現実をついて、福島の復興を支えようと、努力を重ねる医学者、科学者たちの間にも諦念が漂いはじめています。いくら放射線について数値を示して説明を尽くしても、別の見解を引き合いに出され、「そんなことも知らないで専門家を気取るな」と言われてしまう。そのようないたちごっこに疲れてしまっているのです。

福島の定常状態。それは、安定や安心ではなく、表面上は穏やかに見えながら、不安と諦念が入り混じって一定量で安定した、平衡の状態です。何かの折に「専門家」が2極に分かれて議論をするけれども、その議論がどこにも行かないまま終息してしまう。その繰り返しに住民の方が疲弊してしまっているのです。

ではなぜ福島をめぐる議論は決着がつかないのでしょうか。そこには、「真実」を伝える科学が「現実」を解決するということ自体への限界が存在します。疫学と公衆衛生の視点からこの問題を考えてみたいと思います。

科学では福島の姿を説明しきれない

科学で重視される行為に「再現性」があります。「真理は条件が代わってもまた真」である、という前提です。しかし実験科学と異なり、人間社会において、再現性の評価は不可能と言ってもよいと思います。

1つには、対象となる人々の背景が異なりすぎる、ということがあります。たとえば食料と情報の流通が乏しく、放射能未測定の食品を食べ続けたチェルノブイリの人々と、情報と流通の発達した現代の日本に暮らす人々の被ばく量を比較することは難しいと言えます。

もう1つには、「バイアス(偏り)」の存在です。例えば、原爆被災者の方々には、「生き残りバイアス」が存在します。健康な方しか生き残っていなかった、だから平均寿命が長いのかもしれない、というものです。あるいは、自主健診では、「ボランティアバイアス」、つまり健康に気づかう方だけが受けに来ているというバイアスがかかってしまい、全例調査との比較が難しい。

学術論文はいうなれば物事の切片のようなものです。たとえすべての論文が「科学的に」正しいことを言っていたとしても、2次元の切片が3次元の物体を真に伝えられないのと同じく、論文は「現実社会」を完全に模倣することはできません。

「…出来事の場合には、まったく予期しない事が最も頻繁に起こるから…『結果を計算する』形式で推理するということは、予期せざるもの、すなわち出来事そのものを考慮の外に置くという意味である。なぜなら『無限の非蓋然性』に過ぎないものを予期するのは非理性的であり非合理的であろうから。…」-アンナ・ハレント「人間の条件」より

すなわち、極論を言ってしまえば、科学的論文は福島の現実を伝えられない、ということです。

統計と因果関係

現状の社会だけでなく、限られた情報の中で時間的な因果関係を示すことにも限界もあります。

たとえば現在、福島県では甲状腺がん検診の結果、子どもの甲状腺がんが発見されています。それが福島原発事故による増加なのか、という点は「専門家」の間でも議論の分かれるところです。

しかし一番の問題点は、この議論において「統計学的な差」と「疫学的な因果関係」が混同されていることにあります。つまり、あるA(原発事故)という事象の後にB(甲状腺がん)という事象が起きたときに、統計学的な増減だけでAとBが原因と結果の関係にある、という単純な判断をしてしまうことです。

少し難しいのですが、Aの後にBが起きた、というデータを見たときに、疫学的には
「このデータを用いてAとBの因果関係を示せるか」
ということを検討し、そのあとで
「ではそのデータに基づいてAがBを起こす程度がどのくらいなのか」
という議論をする必要があります。

例えば、上記の例でいえば、「これまでの情報で原発事故と甲状腺癌の因果関係を示せるか」と判定したうえで、「ではその情報に基づいて因果関係があるのか、あるとしたらどのくらいなのか」を議論することになるわけです。しかしこれまでなされてきた多くの議論では、前者の議論のないままに唐突に後者のみが議論されてしまっているようです。

では現状のデータで、原発事故と甲状腺がんの因果関係は示せるのでしょうか?

因果関係の判断基準で一番有名なものは「Hillの基準」というもので、以下の9項目を検討するものです。

1. 関連の強さ
2. 一貫性:色々な手法でデータが集められている。
3. 時間的関係
4. 生物学的容量反応勾配:量が増えた時に効果も大きくなるというもの
5. 特異性:Bの原因としてA以外のものが考え難いか
6. 生物学的説得性
7. 整合性
8. 実験・データの質
9. 類似性:過去に類似した報告がなされているか

このHillの基準を用いて検討してみます。あてはまるものを〇、あてはまらないものを×、どちらともいえないものを△とします。〇が多ければ、「福島原発事故と甲状腺癌との因果関係を語れる情報が十分ある」、×が多ければ、「因果関係を示せる十分な根拠がない」ということになります。

1.関連の強さ:事故前と今とでは何倍増えているかわからないので、事故とがんの関連の強さを判定できない。→×
2.一貫性:観察手法が限られている。→△
3.時間的関係:事故前のデータがないので、過去と比較した増減の判定ができない→×
4.生物学的容量反応勾配:住民の初期被ばく量データがないので、被ばく量が多いと癌の発症率が上がる、ということが示せない→×
5.特異性:放射線以外にも癌の誘因がある(ヨード過剰、ヨード不足など)が、特異性はまあま高い→△
6.生物学的説得性:生物学的には放射性ヨードを摂取すると、甲状腺がんの発生が増える傾向がある→〇
7.整合性:論理的に矛盾しない→〇
8.実験・データの質:災害後であり良質なデータはない→△
9.類似性:過去にチェルノブイリでの報告がある→〇

このように、〇、△、×が3つずつになってしまいました。つまり、既存のデータは、福島の放射線が甲状腺がんを引き起こしたという因果関係を示すには十分でない、といえます。

くどいようですが、「因果関係を示すに十分な情報がない」ということと、「因果関係がある・ない」ということは別物です。つまり、福島の子供たちの間で原発事故による甲状腺がんが増えているかどうか、ということに関しては、今どんなに議論を尽くしても、結論は出しづらい、ことです。

1人の命を助けるお金、多くの人を助けるお金、どちらに価値がある?

さらに、原発事故において議論をさらに紛糾させるのは、「公衆衛生」と「医学」の衝突です。公衆衛生とは、「社会全体として病気を予防し、健康を増加すること」を目的にします。一方で、医学は「病気を治し、苦痛を和らげ、人の命を救うこと」を目的にします。つまり前者は社会全体の人々の健康状態を俯瞰し、後者は目の前の個人の健康に努力を集中します。

たとえば今、福島県では事故当時18才以下だった人を対象にした甲状腺がんの全例スクリーニングが行われていますが、この是非が議論されています。検査の手間やコスト、むしろ人々の不安をあおるのではないか、という懸念から全例調査に懸念を示す人がいる一方で、子供の命のために絶対に続けなくてはいけない、と主張する方があります。前者が公衆衛生、後者が医学に近い立場の方々です。

公衆衛生の視点で見れば、1人の子供の命を救うためにその何千倍もの人数のスクリーニング検査のコストがかかります。また不安というリスクもあります。すると、物的・人的資源を効率よく割り振るために、たとえば
「同じお金を別の目的、例えば避難生活に苦しむ家庭などに使うべきではないか」
という比較もすることになります。

しかし医学の立場では、このような割り切りはできません。
「子供の命を値段に変えるのか」
そのように憤慨される方の意見は、医学の視点からいえば、至極まっとうです。目の前に患者がいれば無償の奉仕の精神で救うのが医療倫理だからです。

つまりこの点において、公衆衛生は医療倫理と真っ向から対立することになります。同じ医師であっても、公衆衛生の立場から発言される方と臨床医との議論の決着がつかないのはこの公衆衛生と医学の対立によるものが多いと思います。

科学者の責任

福島において、科学的な分析を誠実に行ってもなぜ結論が分かれるのか。いくつかの例をお示ししました。そこには科学の限界、事象の限界、コストと善意の天秤、様々な要因が存在します。

調査・研究を続けること自体は、真実を明らかにするために大切なことです。しかし「分からない」という可能性を無視して議論を続けることに、どこまで意義があるのか。私はここに疑問を覚えます。

科学に対する信頼が高すぎることで、知識の罠に陥る人が増えています。様々な立場から科学論文・論説が発信されることで、今や自分の意見に合う「証拠集め」をすることはあまりにも容易になってしまいました。その結果、自分の信じたい意見を通すために「専門家の意見」を利用し、知識がある人ほど、視野が狭くなっていく。そのような方が、福島の放射線をめぐる議論で増えている印象を受けます。

また、どこかに「正解がある」と思い込んで議論をすることで、議論自体が目的を失い、互いが互いの説得をすることに終始してしまう。そういう場面もよく見かけます。

そもそも「福島の放射能は危険だ」という議論は何のためのものでしょうか。「この程度の線量なら安心だ」と人を「説得」しなければならない理由はなんでしょうか。私はここで敢えて自分の意見は述べません。なぜならすべての立場の方々に、議論の目的を考えていただきたいからです。

「過去と他人は変えられない」という名言があります。原発事故という過去は変えられないのと同様、議論で人を変えようとすることもまた、是認しがたいと思います。安心な人は安心なりに、不安な人は不安なりに、共存しながら最良の道を目指す。それが今、不安定ながらも定常状態に至った福島の住民の方々が選んだ道なのかもしれません。

今福島に住む1住民として、科学者に求めたいことは、
1.分からない、ということを認識すること
2.分かるための努力を続けること
3.分からない中でも人が健康になる方法考えること
の3点に尽きると思います。

今福島に必要なものは、何物をも産み出さない知識や理屈の応酬ではなく、人々が健康に、幸せになるための、問題解決手段としての議論です。すべての研究、調査、情報、それは誰かの主張を通すことではなく、住民の方々の健康をよくするために用いてほしい。そのように心より願っています。

越智小枝(おち・さえ)1999年東京医科歯科大学医学部卒業。国保旭中央病院などの研修を終え東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科に入局。東京下町の都立墨東病院での臨床経験を通じて公衆衛生に興味を持ち、2011年10月よりインペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院に進学。3.11をきっかけに災害公衆衛生に興味を持ち、相馬市の仮設健診などの活動を手伝いつつ留学先で研修を積んだ後、2013年11月より相馬中央病院勤務。剣道6段。

(2015年1月13日掲載)

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越智 小枝
相馬中央病院 内科診療科長

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