原子力規制委員会の「専門バカの壁」
世の中で専門家と思われている人でも、専門以外のことは驚くほど無知だ。特に原子力工学のような高度に専門分化した分野だと、ちょっと自分の分野からずれると「専門バカ」になってしまう。原子力規制委員会も、そういう罠にはまっている。
今の田中俊一委員長は日本原子力研究所(原研)で放射線の遮蔽を研究し、次の委員長になる予定の更田豊志委員長代理は、原研では実験炉で燃料の研究をしていたという。つまり2人とも原発の安全規制の専門家ではなく、委員会に入ってから勉強し始めたのだ。
そして2人ともまだ理解してないことがある。原子力規制ではPRA(確率論的リスク評価)というが、むずかしい話ではない。リスクは確率的な期待値だという当たり前の話で、経済学部の学生は1年生で学ぶ。
たとえば青酸カリの致死量は300mgだが、タバコ1本の煙を吸って死ぬことはない。しかし青酸カリで死ぬ人は年間数人だが、タバコが原因で(多くは肺癌で)死ぬ人は年間13万人だから、タバコのリスク(期待値)は青酸カリよりはるかに大きい。つまり
リスク=ハザード×確率
だから、ハザード(1回の被害)がきわめて大きいが確率がゼロに近い青酸カリより、ハザードは小さいが確率の高いタバコのほうがリスクが大きいのだ。同じ理由で、原発より石炭火力のリスクのほうがはるかに大きい。原発を止めて石炭火力を動かすことによって、日本でも毎年少なくとも数百人が(呼吸器系疾患で)死んでいると推定される。
もう一つ原子力規制委員会が理解していないのが費用対効果である。これもむずかしい話ではなく、ある公的投資を実行するための必要条件は、そのコストとメリットが
コスト<メリット
となっていなければならないという当たり前の話だ。たとえば福島県で「除染」するコストは、今の経産省の見積もりで8兆円だが、それによって健康被害が減るメリットはゼロといってよい。今の福島の放射線レベルは最大でも年間20mSvぐらいで、それによって発癌性が高まる確率はゼロ(統計的に有意ではない)だから、除染は公共事業としてはやってはいけない。
ところが田中委員長も更田委員長代理も「確率論的リスクや費用対効果という考え方は取らない」という。これは民主党政権が、少しでも危険な原発はゼロにすると決めたためだ。確率論的に考えると、どう計算しても原子力のリスクは石炭火力より小さいが、田中氏も更田氏も自分の専門分野ではないので、政治家に反論できなかったのだ。
そういう経緯をすべて知っているのは、原子力規制庁の安井正也長官である。彼は原子力工学の専門家で、経産省では原子力政策課長など本流を歩んできた原子力規制のプロフェッショナルだ。3・11の事故対応も指揮し、彼が規制委員会の決定を実質的に決めているという。だとすれば安井長官がこうした確率論的リスクや費用対効果をどう考えているのか、知りたいものだ。
日本の組織では、厄介な問題は田中氏や更田氏のような「天皇」が形式的な責任をとり、実質的な決定を行う規制庁のような「幕府的存在」は責任を問われない。この「無責任の体系」を変えるためには、まず規制委員会と規制庁の情報交換を文書化して公開する必要がある。

関連記事
-
おなじみ国連のグテーレス事務総長が「もはや地球温暖化(global warming)ではなく地球沸騰(global boiling)だとのたまっている。 “地球沸騰”の時代!?観測史上最高気温の7
-
政府のエネルギー基本計画について、アゴラ研究所の池田信夫所長がコメントを示しています。内容が、世論からの批判を怖れ、あいまいであることを批判しています。
-
1954年のビキニ環礁での米国の水爆実験 【GEPR編集部】 日本の内外から、日本の保有するプルトニウムへの懸念が出ています。ところが専門家によると、これで核兵器はつくれないとのこと。その趣旨の論考です。 しかし現実の国
-
IPCCの報告がこの8月に出た。これは第1部会報告と呼ばれるもので、地球温暖化の科学的知見についてまとめたものだ。何度かに分けて、気になった論点をまとめてゆこう。 アフリカのサヘル地域では1980年代に旱魃が起きて大きな
-
はじめに述べたようにいま、ポスト京都議定書の地球温暖化対策についての国際協議が迷走している。その中で日本の国内世論は京都議定書の制定に積極的に関わった日本の責任として、何としてでも、今後のCO2 排出枠組み国際協議の場で積極的な役割を果たすべきだと訴える。
-
CO2濃度が過去最高の420ppmに達し産業革命前(1850年ごろ)の280ppmの1.5倍に達した、というニュースが流れた: 世界のCO2濃度、産業革命前の1.5倍で過去最高に…世界気象機関「我々はいまだに間違った方向
-
影の実力者、仙谷由人氏が要職をつとめた民主党政権。震災後の菅政権迷走の舞台裏を赤裸々に仙谷氏自身が暴露した。福島第一原発事故後の東電処理をめぐる様々な思惑の交錯、脱原発の政治運動化に挑んだ菅元首相らとの党内攻防、大飯原発再稼働の真相など、前政権下での国民不在のエネルギー政策決定のパワーゲームが白日の下にさらされる。
-
福島第1原子力発電所の事故以降、メディアのみならず政府内でも、発送電分離論が再燃している。しかし、発送電分離とは余剰発電設備の存在を前提に、発電分野における競争を促進することを目的とするもので、余剰設備どころか電力不足が懸念されている状況下で議論する話ではない。
動画
アクセスランキング
- 24時間
- 週間
- 月間