理想と現実の衝突が顕在化するEU

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3月初めにEUの環境政策関係者に激震が走った。
「欧州グリーンディール」政策の一環として2021年7月にEUが発表した、2030年までに温室効果ガスの排出を90年比55%削減するという極めて野心的な目標をかかげた「FIT for 55」政策の目玉政策の一つである、内燃機関自動車の販売を2035年に禁止する(つまり全ての車をEV化する)という法案について、3月7日に行われる予定だった最終決定投票を無期延期することが発表されたのである。
EUの政策決定プロセスでは、加盟27か国の様々な立場や意見を反映して合意を取り付ける必要があり、欧州委員会、欧州議会、欧州閣僚理事会という3つの機関で法案がもまれ、加盟各国からの異論や反対の声を調整し、政治的な妥協が図られた上で、それぞれの機関で採択され、さらにその結果について3機関による最終調整を行い、そこでまとまった最終案を、各国首脳があつまるEU閣僚理事会で決議して最終的に成立する。
実際今回の自動車EV化法案は、すでに欧州委員会の専門閣僚会議で合意され、2月14日に開かれた欧州議会でも賛成340票、反対279票、棄権21票で可決されて、閣僚理事会との調整も終わり、最終的に3月7日のEU閣僚理事会での形式的な投票で成立するとみられていた。
しかし土壇場になって加盟国のうちドイツ、イタリア、ポーランド、ブルガリアが、このままの法案には賛成できないとして修正を求めることを表明した。このままでは加盟国の人口比で65%以上の賛成を要する法案成立要件が満たせなくなったため、土壇場で理事会での採決を見送らざるを得なくなるという、極めて異例の事態となったのである。
宗教化した気候変動対策の悪影響
その前兆は既に2月27日の時点で浮上してきていた。同日にストックホルムで開催されたEUエネルギー運輸大臣会合の場で、ドイツのミヒャエル・トイラー運輸大臣が「本委員会は、気候中立的な合成燃料(e-Fuel)で運転される内燃機関自動車をどう扱うかについて提案すべきである」と表明した。
またイタリアのサルビーニ運輸大臣も、EUが決定しようとしているこの35年内燃機関自動車禁止法について、「EUの経済的自殺だ」と評し、それが中国に利益をもたらし欧州の自動車産業に損害を与える「イデオロギー的原理主義」だと述べたと報道されている。
確かに今や世界のEV生産・販売でトップに君臨するのは中国のBYD社であり、2位が米テスラ(それも大半が同社の上海工場で生産)であり、欧州の自動車会社の影は薄い。さらにEVに必要なバッテリー生産の世界シェアは中国が押さえており、ドイツブランドの自動車メーカーも中国でのEV、バッテリー生産計画を進めているという状況である。
EU全体で260万人ともされている自動車産業の雇用が、この内燃機関自動車禁止、EV化推進政策によって失われてしまうという危機感が迫っていたのである。
フィアット、アルファロメオ、フェラーリなどの工場を自国に持つイタリアでは、約27万人が自動車産業に直接的・間接的の雇用されているという。欧州を代表する産業国であるドイツでは自動車産業の直接雇用だけで90万人を超え、ドイツのシンクタンクIFO研究所が3月17日に発表したレポートの中では、内燃機関(エンジン)製造部門だけで2019年には約447,000人の従業員がドイツ国内で製造に携わったとされている。
さらに同レポートでは世界的に競争優位を持ってきたドイツの自動車産業がEVシフトによって比較優位を失いかねないと警告し、ドイツでは自動車産業が国内産業全体の売り上げの5分の1を占め、18年には1090億ユーロの付加価値を生み出しているという。
このドイツの基幹産業といってもよい内燃機関自動車製造を、あと12年で完全にEV産業に入れ替えることが果たして可能なのか? それはやらねばならないことなのか? そうした声が自動車産業を抱えるEU域内の国から上がってくるのは自然な流れだろう・・・というかむしろ、何で最後の土壇場になるまでそうした声が上がらなかったのか?ということの方が不思議である。
そのヒントになるのが、先ほどのイタリアの大臣のコメント「イデオロギー的原理主義」なのかもしれない。気候変動対策が宗教ともいえるイデオロギー化している欧州で、CO2を排出して走る内燃機関自動車を擁護あるいは延命しようとする発言は、中世の魔女狩りのような批判と糾弾をあびせられることになりかねないため、企業も政治家も心の中ではできない、やりたくないと思いつつ、本音を隠して口をつぐんできたのではないか。しかしそれがいざ最終決定する土壇場になって急ブレーキが踏まれたのである。
興味深いのはこの土壇場の逆転劇の直前、2月16日に、ドイツのショルツ首相がはじめて、フォルクスワーゲンのウォルフスバーグ本社工場を訪問していることである。
同社のホームページに掲載されたニュースによれば、ショルツ首相はその場で、集まった1万人の同社社員を前にしてフォルクスワーゲンは「ドイツを体現する設計図だ」と発言したという。しかし数時間にも及んだとされる首相と同社の労働者、労働組合評議員、取締役会幹部との議論の詳細は開示されていない。
ホームページでは、首相の訪問は同社にとって「我々の業界をドイツにおける競争力ある産業とし、安全で持続可能な雇用をもたらすトランスフォーメーションを成功させる新たな推進力をもらすものだった」とだけ評している。
そしてその10日後の2月27日、ドイツの運輸大臣が内燃機関自動車を禁止するEUの法案に異議を唱え始めたのである。フォルクスワーゲンを訪問したショルツ首相がどういう訴えを聞いたか、想像に難くないだろう。
理想と現実のギャップに揺れ動くEU
ただドイツもイタリアも、この法案について正面から「反対」しているのではなく、「修正が必要だ」といって待ったをかけていることはよく見ていく必要がある。
「必要な修正」とは、エンジン車の走行時に排出されるCO2排出に相当するCO2を、カーボンニュートラルな水素と反応させて作った合成燃料(e-Fuel)を使うのであれば、エンジン車であっても実質カーボンニュートラルで走行できるので、例外的に認めるべきだという主張である。
この主張なら少なくとも、環境イデオロギー的原理主義の立場からも正面切って糾弾されないだろうということなのだろう。しかしそうしたe-Fuelがどこまで大量生産、供給され、内燃機関自動車生産を延命できるかは現時点で全く見通せない。それでも「エンジン車販売禁止」となってしまえば、エンジン生産にかかわる工場は全面閉鎖せざるを得なくなるので、そうした事態を少しでも回避、延命して、世界の自動車産業の将来、さらには気候変動政策の動きを見極めていきたい、というのが本音なのだろう。
実際、今後発売するe-Fuel自動車について、e-Fuelだけで走る車ではなく、ガソリンやディーゼル燃料にe-Fuelを混ぜて走ることができるハイブリッドタイプにできれば、当分の間従来通り内燃機関自動車の生産を続けることが出来ることになるし、2035年時点で必要十分なe-Fuelの供給が実現できる見通しが立たなければ、EU域内でそのままガソリンやディーゼル車を販売し続けることが可能となる。
そうしたEU内部での混乱の中、3月25日には欧州委員会とドイツなど関係各国の間で、e-Fuelを使った内燃機関気動車については、例外として2035年以降も販売を認めるという妥協案が合意されたというニュースが流れた。この修正案が欧州議会、EU閣僚理事会で審議される中で、最終的にどのような形で法律化されるかについては、予断を許さない状況であり、今後もその動向を注視していく必要がある。
高い目標をかかげ、気候変動対策で世界をリードしてきたEUであるが、「言うは易く行うは難し」である。
今回のように、内燃機関自動車の禁止といった、実際の人々の生活や雇用に直結する具体的な対策に踏み込む段になると、掲げた「理想と現実のギャップ」に直面し、様々な政治的軋轢が噴出しはじめるという実態が顕在化し始めている。
他にもオランダで政府が進めようとしている農業分野の厳しい環境規制に反発した農民市民運動党が、3月15日に行われた地方選挙で第一党に躍進し、同国の上院第一党になることが決まっている。今後EUが急進的な気候変動政策を推し進めていこうとすると、各国でこうした市民や社会の反乱を招き、政治的な反発が強まることで大幅な方針転換を余儀なくされる事態が頻発するようになるのではないか?
日本もこれを他山の石として、EUの気候変動政策の実態や動向について慎重にフォローしていく必要があろう。

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