「故郷に住むのは当然だ」チェルノブイリ、自主帰還の近郊住民と語る(上)
チェルノブイリ原発事故の後で、強制避難の行われた同原発の近郊に避難後に戻り、生活を続ける自主帰還者がいる。放射能が危険という周囲の見方と異なり、その人たちは総じて長生きであり、自分では健康であると述べている。
日本では福島原発事故の後で、16万人にのぼる福島県の浜通り地区の人々の避難が長期化しており、ストレスによる健康被害と、今後の地域の再建が不可能になるなどの問題が浮上している。チェルノブイリの帰還者の姿を紹介して、福島の問題解決のヒントを探りたい。

筆者は、作家・思想家の東浩紀氏の経営する出版社ゲンロンのチェルノブイリ視察のツアーに参加した。通訳はロシア文学者の上田洋子氏に行っていただいた。避難者の言葉はウクライナ語だった。
(参考記事・チェルノブイリ原発事故、現状と教訓「(上)日本で活かされぬ失敗経験」「(下)情報公開で誤情報の定着を避けよ」)
1・「80年代のソ連」が凍結された村
「故郷に住むのは当然じゃないか」。チェルノブイリ原発から、およそ南方に20キロ離れたパルイシェフ村に住む77才の男性、イワン・イワノビッチ氏は日本人の質問に、故郷に戻った理由を答えた。
訪れたのは11月の中旬。外気は氷点下だった。白樺のような木からなる森に囲まれた一軒家で、家は古びていた。周囲は農地だったが、晩秋ゆえに作物はほとんど植えられていなかった。周辺の農地は自分で食べる程度の作物を育てる農地があった。
ウクライナは穀倉地帯として知られるが、北方のチェルノブイリ近郊の地域は沼沢地で水はけが悪く、主食の麦は育ちにくい。地域の農業は畜産が中心で、じゃがいもや豆類などの野菜の畑作が行われていた。そして彼は豚を飼っていた。肉は自分で食べるという。
当時の人口は約1000人だが、この地方では小さめの村で、3つの村が集まってコルホーズ(集団農場)や役場を運営していたという。この地域は第2次世界大戦の独ソ戦の時にパルチザンが活動していたが、この村は巻き込まれなかったという。

村は1980年代のソ連が、そのまま保存されていた。木造の建築が数十メートル離れ並んでいたが、裕福な感じはなかった。道は舗装されていない。家の大半は原発事故後に放棄されたようで、今は朽ちかけていた。
ちなみにチェルノブイリに隣接して、原発の技術者が住む人口約4万人のプリピャチという都市が1970年からつくられた。そこも同日訪問した。そこは近代建築が立ち並ぶ場所だった。福島出身の社会学者の開沼博氏が「福島で原発と共に近代がやってきた。チェルノブイリでも同じだった」と、ゲンロン社の解説本「チェルノブイリ ダークツーリズム ガイド」で述べていた。周辺部の昔ながらの農村と、現代技術の象徴でありながら事故を起こした原発、それによって作られた近代都市の対比が興味深かった。

2・近くに住んでも危険はなかった
イワノビッチ氏は妻と2人暮らしだった。ここは近くに政府の森林保全の部局と警察の事務所があり、職員がときおり様子を見たり、世話をしたりするという。上下水道はないが電気は通っていた。電話はない。現金収入は、月約2500フリブナ(ウクライナの通貨、1フリブナは約7円)の年金に、約100フリブナの補償金という。日本円で約2万円程度だ。1週間に一回ほど、業者が日用品を売りに来る。
彼はこの村に生まれた。徴兵で軍に行った後で退役後はプリピャチ川の船の船員をしながら、農業もしていたそうだ。原発事故の後は、チェルノブイリ原発で警備や管理に雇われた。被災した周辺の住民対策だろう。そして定年が来たために、この地に移り住んだ。
放射能の恐怖はないのだろうか。イワノビッチ氏は軍にいた時に、放射線防護関係の部隊で文章を管理し、その知識があったという。「この村は健康に危険という放射線のレベルではまったくなかった」そうだ。水も、土地も原発事故の後でも放射線量は大きな変化はなかったそうだ。ただし具体的な数値は聞けず、今は計測している形跡はない。ただし、持参した放射線測定器では、この村の放射線量は、毎時0.2マイクロシーベルト程度と低かった。
一緒にコルホーズ(集団農場)を運営していた村は、放射線の線量が高かった。地形や風向きで汚染度はかなり違った。この村は原発の南にあるが、事故当時に風は南から北に流れ、北方のベラルーシや北欧諸国に汚染物質が広がった。
私たちは、原発事故での放射能による汚染について一定地域がまんべんなく汚染されると思い込んでいる。ところが福島原発事故がそうであったように放射性物質が拡散した風、また雨などの水の動きで、拡散は一定地域に均等に起こらない。
3・避難者に向けられた差別、そしてストレスの広がり
イワノビッチ氏は、自分の健康は「年を取ったこと以外、あまり問題はない」という。彼の同世代の住人、兄弟が避難したが、大半の人が亡くなってしまったという。避難した場所ではチェルノブイリからの避難者は差別された。当時、店などでは「チェルノブイリの奴らが来た」とささやきが広がり、人々が逃げ出したという。「けれども、そのために、長い列をつくって店に並ばなくてもよかったがね」と、彼は笑った。そして「多くの人が病気になったのは心の負担のためかもしれない。私は自分の住んだところにいられて、そうした負担はない」と話した。
旧ソ連では情報が隠蔽され、正確な情報が伝わらなかった。しかし情報にあふれた日本でも、福島をめぐって「汚染されている」というデマ、誹謗、福島への差別が今でもある。同じ混乱が起きたことは、とても残念だ。
イワノビッチ氏は、今後もこの地に住み続けるそうだ。「この地は美しく、人が幸せに生きるものすべてがそろう。私が残念に思うのは、この美しい土地を活用しないことだ。今は私が一人で勝手に使っている。もったいない」と言う。
原発については、チェルノブイリに原発が建設されるという話を聞いたときから、心情的には反対だった。「原子力は危険だ。こんな事故も起きてしまった。しかし電気が必要な以上、原発は仕方がないが、安全に使っていかなければならないと思う」と、意見を述べた。
チェルノブイリに今でも関わる人に質問しても、簡単に原発「賛成、反対」と結論を述べない。あいまいな答えが返ってくることも多かったし、自分の体験を長々と話した後に、賛否を口にした。イワノビッチ氏もそうだった。そして、これは福島の住民の方と話したときも同じだった。頭の中で原発を考えているのではなく、重く、長い個人体験の中で原発と向き合ったためであろう。
ただし彼が帰還した理由は、故郷への愛だけなのだろうか。確かにスラブの農民の土地への愛着は、文学などさまざまな形で描写されている。しかしそれだけが理由ではなさそうだ。妻の体の具合はよくなさそうだし、2人の息子もなかなかここにこないという。個人的事情があるのかもしれないが、私は彼の内面に踏み込んでわざわざ聞くことはできなかった。
元気に「さよなら」をいうイワノビッチ氏を後に、私は村を去った。
「(下)強制避難という福島事故の政策の誤り」に続く。(8日掲載予定)
(2014年12月1日掲載)

関連記事
-
ブルームバーグ 2月3日記事。福島の原発事故後に安全基準が世界的に強化されたことで原発の建設期間が長期化し、建設の費用が増加している。
-
米国の農業を米国穀物協会の取材支援によって8月に現地取材できた。それを全4回に渡って紹介する。(第1回、全4回) 米国科学アカデミー(NAS)は5月、「遺伝子組み換え作物-経験と見通し」という報告書を発表した。この作物を総合的に評価するものだ。
-
経産省・資源エネルギー庁は、現在電力システム改革を進めている。福島原発事故の後で、多様な電力を求める消費者の声が高まったことが背景だ。2020年までに改革は完了する予定で、その内容は「1・小売り全面自由化」「2・料金規制撤廃」「3・送配電部門の法的分離」などが柱で、これまでの日本の地域独占と「10電力、2発電会社」体制が大きく変わる。
-
第二部では長期的に原発ゼロは可能なのかというテーマを取り上げた。放射性廃棄物処理、核燃料サイクルをどうするのか、民主党の「原発ゼロ政策」は実現可能なのかを議論した。
-
私は獣医師で震災の年まで福島県の県職員だった。ふるさとの楢葉のために働きたいと思い、町議に立候補し、議長にも選んでいただいた。楢葉町では原発事故によって3つのものが失われたと思う。
-
(GEPR編集部より)原発ゼロの夏を否定的に見る意見もある。日本の鋳造業と電力危機の関係を聞いた。
-
2011年3月11日に東日本大震災が起こり、福島第一原子力発電所の事故が発生した。この事故により、原子炉内の核分裂生成物である放射性物質が大気中に飛散し、広域汚染がおこった。
-
福島原発事故以来、環境の汚染に関してメディアには夥しい数の情報が乱れ飛んでいる。内容と言えば、環境はとてつもなく汚されたというものから、そんなのはとるに足らぬ汚染だとするものまで多様を極め、一般の方々に取っては、どれが正しいやら混乱するばかりである。
動画
アクセスランキング
- 24時間
- 週間
- 月間