サイエンスがゼロの水素政策
元静岡大学工学部化学バイオ工学科 松田 智
5月22日に放映されたNHK・ETVの「サイエンスZERO」では、脱炭素社会の切り札として水素を取り上げていたが、筆者の目からは、サイエンス的思考がほとんど感じられない内容だった。

サイエンスZERO(NHK HPより)
最初に断っておくが、筆者はETVをNHKの中で高く評価しているし、この番組のすべてが悪いと言うわけではない。しかし、以前にも水素を取り上げた回があったが、ひたすら水素礼賛に終始しており、閉口した記憶がある。水素の抱えている問題点を、何ら指摘していないから。
この回でも、冒頭いきなり、菅首相の就任直後の演説中にある「無尽蔵にある水素を新たな電源として位置づけ、大規模で低コストな水素製造装置を実現します」と言う言葉を引用している。
しかしこの言葉、意味が不明瞭で種々の問題を抱えている。まず最初の「無尽蔵にある水素」とは何を指すのか?確かに、宇宙規模で見れば、最も豊富に存在する元素は水素であり、その量も無尽蔵ではあるが、地球上で人間が入手出来る水素でエネルギー利用可能なもの(H2)は、資源として産出しない。少なくとも、決して無尽蔵ではない。
人間の尺度で無尽蔵と言えるのは、水、特に海水であろう(地球上の水の96.5%が海水、淡水は2.5%しかない)。しかし、これを「新たな電源として位置づける」とは・・?後段で「水素製造装置」と言っているから、電源と言っても水力や潮汐発電ではなさそうだ。
どうやら、無尽蔵にある水素とは、水(H2O)に含まれる水素を指すらしい。しかし、H2とH2Oの区別がつかないようでは、中学レベルの化学的理解さえもないことになる。これは、由々しき事態ではないのか?もっとも、菅首相は、国会演説で「温室効果ガス」を「こうしつおんかガス」と読んで、議場をザワつかせた科学リテラシーの持ち主であるから、何ら不思議はないのかも知れないが。
後半の「大規模で低コストな水素製造装置を実現します」も不明確で、具体的な方式を言えとまでは求めないが、少なくとも、いつまでに、どこで、どの程度の規模で生産するつもりなのか、腹づもりだけでも示さないと、単なる空念仏に終わってしまう。
常識的に考えれば、水(海水)から水素(H2)を製造するとなれば、電気分解を想定することになるが「大規模で低コスト」となると、国内じゃちょっと無理そうだな、となる。実際、番組に出演した教授の話では、2017年の「水素基本戦略」が下敷きになっているそうだから、やはり海外での大規模生産を念頭においていることになる(ただし、豪州褐炭などを水素源と考えるならば、無尽蔵と言う表現は使わないだろう)。
しかし、水資源というのは、元々無尽蔵ではない。雨の多い日本では実感しにくいが、人間の利用できる真水は、意外に少量しかない。もし海水を電気分解すると、水素(H2)と同量の塩素(Cl2)が発生し、液相には水酸化ナトリウムが蓄積するから、現実的でない。実際、水酸化ナトリウム(カセイソーダ)の工業的生産法は、食塩水の電気分解である(海水は不純物が多いので使われないが)。砂漠地帯では、水の入手が課題になることは、前稿で述べた。
番組では、太陽光発電と水素製造・燃料電池の組合せで、電力貯蔵ができることが主な利点として挙げられていた。この場合、電気分解による水素製造の効率も、燃料電池による発電の効率も約60%なので、二段階だと36%、すなわち64%もロスすることは、触れられていない。
前稿でも触れたが、電力を蓄えたら64%も無くなってしまう蓄電池は、決して売り物にならないはずである。しかも、太陽光発電のコストは高い。その高い電力の36%しか使えないとなれば、電力単価はさらに3倍近く高いものになる。これが「脱炭素の切り札」の実態なのだ。「大規模で低コストでの水素製造」は、どこへ行ったのか?
番組後半では、水素を液化するのに新しい技術開発が必要とのことで、磁気とヘリウムを使った新しい冷却装置が紹介されていた。実用化されれば、液化コストが半分になるとか。
しかし、何万トンという水素を液化するプラントをこの方式で建設するのは、かなり大変だろう。大量のヘリウムの調達も、大きな課題になる。いま建設中のリニア新幹線でも、ヘリウム不足で走れなくなる心配が言われているくらいだから(JRはそのため、液体窒素程度の温度で作動する超伝導素材の開発に血まなこになっているわけだが、まだ完成したとの話は聞いていない)。
それより何より、水素の液化コストが半分になるからと言って、水素の抱えている問題点の多くは何ら解決されないことに注目しよう。少なくとも、前稿で触れた「海外頼みの水素供給体制」は変わりないし、その際のエネルギーロス、従って必然的なコスト高の問題は、何一つ解決策を見出せないでいる。もちろん、番組でも課題とその解決策は、全く示されなかった。
5月25日付けの朝日新聞経済欄には、水素自動車・液体水素運搬船(豪州褐炭水素)・水素アンモニア発電と、華々しく記事が並んでいた。しかしどれ一つとして、筆者が前稿までに指摘した問題点を述べておらず、単に「脱CO2に役立つ」としか書かれていない。
現時点で、商売ベースで水素が使えている事業体・企業はない。現在進行中の水素関連事業は、表向き民間企業が進めているように見えても、実際はすべて国の補助金がつぎ込まれた国家プロジェクトである。補助金に商社その他の企業が群がり、それをマスコミが囃し立てる構図が出来上がっている。そのためだと思うが、水素の問題点を指摘する声は、大手マスコミには、まず載らない。
菅首相以下、政治家に科学技術の詳しい内容理解を求めるのは無理だとしても、その下で働く経産省や資源エネルギー庁のお役人たちは、一応エネルギー関連の「専門家」のはずだから、水素やアンモニア発電が抱えている問題点を認識できていなければならないはずである。
もし、問題点を認識できないとすれば、初歩的な化学の理解さえもないことになり、単に無知無能である。認識できているのに言わないとすれば、それは公僕としての国民に対する誠実さの欠如・裏切りであるとしか言えない。多額の税金の無駄遣いを見逃したのと同じだからである。
筆者は、そのどちらでもないことを願いたい。論語にも言っている、「過ちて改めざる、これを過ちと謂う、過ちては改むるに憚ることなかれ」と。
どうか、サイエンスがゼロの水素政策を止めていただきたい。その知恵と労力とお金を、もっと意味のある仕事に使って下さい。
■
松田 智
2020年3月まで静岡大学工学部勤務、同月定年退官。専門は化学環境工学。主な研究分野は、応用微生物工学(生ゴミ処理など)、バイオマスなど再生可能エネルギー利用関連
関連記事
-
一枚岩ではない世界システム 2022年2月24日からのロシアによるウクライナへの侵略を糾弾する国連の諸会議で示されたように、世界システムは一枚岩ではない。国家として依拠するイデオロギーや貿易の実情それに経済支援の現状を考
-
脱炭素社会の実現に向けた新法、GX推進法注1)が5月12日に成立した。そこでは脱炭素に向けて今後10年間で20兆円に上るGX移行債を発行し、それを原資にGX(グリーントランスフォーメーション)に向けた研究開発や様々な施策
-
きのうのシンポジウムでは、やはり動かない原発をどうするかが最大の話題になった。 安倍晋三氏の首相としての業績は不滅である。特に外交・防衛に関して日米安保をタブーとした風潮に挑戦して安保法制をつくったことは他の首相にはでき
-
トヨタ自動車が、ようやく電気自動車(EV)に本腰を入れ始めた。今までも試作車はつくっており、技術は十分あるが、「トヨタ車として十分な品質が保証できない」という理由で消極的だった。それが今年の東京モーターショーでは次世代の
-
日本の電力系統の特徴にまず挙げられるのは、欧州の国際連系が「メッシュ状」であるのに対し、北海道から 九州の電力系統があたかも団子をくし刺ししたように見える「くし形」に連系していることである。
-
よく日本では「トランプ大統領が変人なので科学を無視して気候変動を否定するのだ」という調子で報道されるが、これは全く違う。 米国共和党は、総意として、「気候危機説」をでっちあげだとして否定しているのだ。 そしてこれは「科学
-
東京電力の福島復興本社が本年1月1日に設立された。ようやく福島原発事故の後始末に、東電自らが立ち上がった感があるが、あの事故から2年近くも経った後での体制強化であり、事故当事者の動きとしては、あまりに遅いようにも映る。
-
従来から本コラムで情報を追っている「再生可能エネルギー大量導入・次世代電力ネットワーク小委員会」だが2月22日に第三回の会合が開催され、非常に多くの課題とその対策の方向性が議論された。事務局としては再エネ発電事業者の不満
動画
アクセスランキング
- 24時間
- 週間
- 月間
















