東電に必要なのは「令和の鬼」ではない:日経論説が素通りした電力の〝設計図〟

2026年10月20日 06:50
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東京工業大学原子炉工学研究所助教 工学博士

10月11日、日本経済新聞に論説委員長の署名論説「東京電力に『令和の鬼』は現れるか」が載った。福島第一原発事故から15年、巨額の事故処理費用を抱え、外部資本との提携を探る東電に必要なのは資本力だけでなく構想力だとし、戦後の電力体制を築いた「電力の鬼」松永安左エ門のような人物が現れるかと問う。

問題提起は大切だ。しかし、結論の向け先がずれている。東電の再建に必要なのは、新しい「鬼」ではない。

「鬼」が残した仕組み

松永は、戦後の電力会社を地域ごとに9社に分けた体制の生みの親である。その柱は、競争相手なしに電気を売れる「地域独占」と、かかった費用に一定の利益を上乗せして料金を決める「総括原価方式」だった。

この仕組みのもとでは、会社はまず損をしない。しかも利益は投じた資産の大きさに比例したから、大きな設備を建てるほど儲かった。原子炉の大型化の背景には、技術の進歩だけでなく、この動機があったと見るのが自然だろう。逆に、古い原子炉の安全対策を強めても利益はあまり増えない。福島第一原発で、6号機の非常用発電機の1台が津波後も動き続けた一方、1〜4号機の電源設備が浸水で失われたことは、この優先順位と無関係だったとは考えにくい。

論説は松永の名を挙げながら、彼が何を設計したのかには一言も触れていない。

仕組みはもう終わったのか

総括原価方式は過去のものだという反論があろう。たしかに送配電部門の料金は2023年から「レベニューキャップ」に移った。だが収入の上限は、送配電会社が自ら見積もった5年分の費用をもとに決まり、実際の費用が見積もりを下回れば、差額は「経営努力の成果」として会社に残る。見積もりを厚めに出せば、利益は約束されたも同然だ。

かつて「認められた報酬」と呼ばれた利益が、いまは「効率化の成果」と呼ばれる。看板は変わったが、利益が料金の仕組みに守られている点は変わらない。外から見えにくくなった分、うまく運用すれば総括原価より儲かる、より巧妙な仕組みになったと言うべきだろう。

発電の側でも、新しい電源の固定費を原則20年にわたって回収できる長期脱炭素電源オークションが2023年度に始まり、原子力もその対象に含まれている。

浜岡の不正と松永を並べながら

論説は、中部電力が浜岡原発のデータ不正で再稼働申請を取り下げたことに触れて企業統治の強化を説き、その直後に松永の名を肯定的に引く。

だが中部電力は、松永が戦前に率いた東邦電力の地盤を受け継ぎ、彼が子飼いの井上五郎を初代社長に送り込んだ、いわば足元の会社である。不正をなくせという主張と、外からの監視が効きにくい仕組みを設計した人物への賛辞とが、何の説明もなく並んでいる。

「稼ぐ力」の中身を問う

論説はNTTのデータセンター事業や鉄道会社の駅前再開発を、インフラ企業の新戦略として紹介する。だが通信も鉄道も競争にさらされており、料金の仕組みで利益を守られてきた電力会社とは守られ方の厚みが違う。守られた利益で本業以外を広げれば、利用者の電気代は目の届かない場所へ流れていく。

ソフトバンクのAIデータセンター構想も好意的に紹介される。AIに電力が要るのは確かだが、「AI時代」という新しい看板は、古い仕組みを問わないまま発電所の新設を正当化しかねない。そうして建つ発電所は、先の20年がかりの費用回収に乗ることになる。

論説は「電力という公益を守りつつ、民間の資本と知恵を成長に振り向けられるか」と問う。だが戦後の電力体制では、公益と会社の利益は切り離されていなかった。

電気を安定して届けるという公益は確かに果たされた。同時に、その公益の看板が、競争にさらされないまま利益を積み上げることを正当化してきた。電力会社は株式会社であり、積み上がった財は言うまでもなく会社と株主のもの、すなわち私財である(注)。問題は、その私財が競争ではなく「公益」の名のもとに守られた料金システムから生まれてきたことだ。

公益が偽物だったのではない。本物の公益が、私的な富をため込む仕組みの隠れみのとして使われてきたのである。公益を守れと唱えるだけでは、その隠れみのを新しい事業にかぶせ直すことにしかならない。

消えた「責任」の主語

論説は「福島第1原発の事故は戦後日本の挫折である」と書く。だが「戦後日本」が主語になったとたん、誰のどの判断が誤ったのかは見えなくなる。869年の貞観地震のように巨大津波は繰り返し襲ってきたし、東電自身も2008年に最大15.7メートルの津波があり得るとの社内試算を得ていた。それでも語られたのは〝想定外〟という言葉であり、その言葉が責任の所在を覆い隠した。

事故処理費用の一部は託送料金に上乗せされ、東電以外と契約する家庭も負担している。費用は国民に薄く広がり、責任はぼやけていく。論説が求めるのは資本力と構想力であって、「責任」という言葉は最後まで出てこない。

必要なのは英雄ではない

「電力の鬼」は松永の執念を称える呼び名だ。だが人を「鬼」と仰ぎ見るとき、私たちはその人が何を設計したのかを確かめる目を閉じてしまう。

大きな問題を1人の傑物に託したくなる気持ちはわかる。しかし、いま東電と日本の電力に求められているのは、誰がどの判断に責任を持つのかが外から見える仕組みであり、そのためには戦後の電力体制という〝設計図〟そのものを読み直すことが欠かせない。

東電が背負う約17兆円の負担は重く、透明な経営が必要だという論説の指摘に異論はない。だからこそ、透明さを妨げてきた仕組みの出発点を、英雄の物語から切り離して見つめ直すべきだ。新しい資本や技術を迎える前に、古い仕組みのどこを変えるのかを示すこと。それが、高校生にも説明できる再建の筋道だろう。

本当の構想力とは、新しい英雄を待つ力ではない。古い設計図の欠陥を見抜き、書き直す力である。

■

(注)電気事業者の利益帰属:『私財』について
我が国の法体制上、電力会社の利益を「私財」と明記する条文は存在しない。しかし、電気事業者は私法上の株式会社(営利法人)であり、その財産は憲法第29条(財産権の保障)に基づき企業の私有財産として保護される。また、会社法第105条(剰余金配当請求権)は、その利益がパブリックな公財ではなく最終的に私人に帰属する構造を裏付ける。

経済学・公共政策学の観点からは、電気事業は「自然独占」や「高い公共性」という市場の失敗を補完するため、電気事業法等による強力な公的規制(かつての総括原価方式や現在のライセンス制)の下に置かれてきた。しかし、規制下にあっても民間組織の経営効率性を引き出すインセンティブとして「適正な利潤(私的財産)」の蓄積・処分権は認められており、利益を国庫に回収するような制度設計にはなっていない。この「インフラとしての『公(公益性)』の役割」と「資本主義経済における『私(営利法人としての私財蓄積)』のインセンティブ」の非対称性(二面性)が、原子力賠償や制度設計を巡る公共政策論上のコアな対立軸となっている。

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