福島事故の悪影響はなぜ続くのか-情報汚染による混乱是正を
1.原発事故の影響が拡大した原因は何か?
国のエネルギーと原子力政策をめぐり、日本で対立が続いている。主張する意見はいずれも国民の幸せを願ってはいるのだが、その選択は国の浮沈に関わる重大問題である。東京電力の福島第1原発事故の影響を見て選択曇るようなことがあってはならない。
福島事故の影響をこれほど大きくした理由は、漏れた放射能だけではなく、事故後に採られた必要以上に厳しい安全規制であった。その背景には世論の圧力があり、その形成にマスメディアが影響した。この構造を正確に理解するべきだ。
多くの国民は、福島県だけで1700人を超える震災関連死、膨大な税金を使う除染、食品安全基準による東北農林水産業の疲弊、それらに伴って発生した風評被害から「あんな危ない原発はもういらない」と感覚的に主張する。しかし、もっと適正な安全対策と科学的に正しい報道があったなら、このように甚大な被害には拡大しなかったであろう。問題を整理してみたい。
2.長期避難は必要なのか?
放射線被ばくが生涯被ばくの増加で100mSv以下であれば、有意な健康障害は認められないし、癌発症リスクも飲酒や喫煙等日常生活のリスクと比較して高くないことが国際的に知られている。(注1)
住民の緊急避難は事故直後にはやむをえなかったであろう。しかし、各地の空間線量が急速に低下し、土壌の汚染状況も測定結果から分かってきたので、被ばくが100mSvを超えない住民の避難解除をもっと早く進めるべきであった。(注2)その後に計画的避難区域の基準が20mSvとされたが、子供への影響を懸念した専門家の「涙の会見」から、さらに低くすべきとの意見が2011年末頃から強まり、結局5mSvが実質的な避難解除の条件になった。
もしも、遅くとも2012年はじめの収束宣言に合わせて、政府の責任ある部署が放射能の健康影響を分かりやすく説明していたなら、避難住民のほとんどは早期に帰還したであろう。
福島県の県民健康管理調査(注3)によれば約47万人の94.8%が2mSv未満、最高は25mSvの被ばくであったと報告されている。帰還が早ければ、震災関連死の拡大を止めるだけでなく、農耕地の荒廃や故郷のインフラ破壊を食い止め、早期復興が実現出来たのではないかと悔やまれる。
(注1)低線量被ばくの健康被害については数多くの文献がある。例えばウェード・アリソン「放射能と理性‐なぜ100ミリシーベルトなのか」(徳間書店)、近藤宗平「人は放射線になぜ弱いか 第3版 少しの放射線は心配無用 」 (講談社ブルーバックス)など。
(注2)長瀧重信「クレオパトラの鼻 東電福島第1原発事故4年目を迎えて」(日本原子力学会誌3月号、Vol.56 2014)で同様の主張がある。
(注3)「福島県民健康管理調査結果(2014年3月31日現在)」(福島県、環境省)
3.桁はずれに厳しい食品安全基準は必要か?
政府は事故による汚染食品からの内部被ばくを制限するため、食品からの内部被ばく量を年間5mSvに相当する暫定食品安全基準を定めたが、2012年4月にこれを1mSvに改訂して今日に至っている。その内容は、一般食品100Bq/kg、乳児用食品と牛乳50Bq/kg、飲料水10Bq/kgであり、米国の年間5mSvに対する一律の基準1200Bq/kgやEUの年間1mSvに対する400-1250Bq/kgと比較して1/10-1/100も厳しくなっている。
厳しさはこれだけではなく、日本では、汚染食品を50-100%の割合で食べると仮定しているのに対して、米国では30%、EUでは10%とそれぞれ低い割合を仮定している。日本の桁はずれに厳しい安全基準は、放射能を必要以上に怖がる強い世論を背景にしており、責任の一端は国民にもあるのではないか。
厳しい安全基準は、東北の農林水産業に致命的なダメージを与えた。原発事故後3年以上経った今では福島と東北で米の作付や果実の出荷が行われ始めているが、水田・畑の荒廃、漁業の停止、農産物の買い控え等の被害が長く続くこととなった。東電では既に2011年10月の時点で風評被害は1兆3000億円にのぼると試算しており、これがさらに膨らむと予測される。(注4)
また、消費者庁が今年10月に発表した世論調査では、食品中の放射能を気にする人の割合が70%、そのうち福島県産品の購入をためらう人が19.6%もあり、風評被害はまだ実態として続いている。(注5)もし欧米並みの食品安全基準を適用し、その安全性を分かりやすく国民に説明していたなら、農林水産業への被害はもっと少なくなったのではないか。
(注4)東電経営財務調査タスクフォース「東電に関する経営・財務調査委員会報告」(概要)(2011年10月)
(注5)消費者庁「風評被害に関する消費者意識の実態調査について-食品中の放射性物質等に関する意識調査(第4回)結果」 (2014年10月1日)
4.除染目標1mSvは必要か?
2011年秋に政府は放射能汚染を除去するため、長期的には年間の追加被ばく線量が1mSv以下になるように除染目標を定めた。しかし、そこまで除染するのは容易ではない。2013年7月に産総研は福島県で実施する除染の総額が5兆円を超えると推定している。(注6)
当時の政府もそれまで1兆円を超える除染予算を計上したが、最終目標の1mSvを達成するまでにどれほど費用がかかるのか見通しを示していない。
一方で、日本の自然放射線による被ばくは全国平均で年間0.99mSvであるが、場所により、放射線を発する岩石を含む土壌が異なるのでばらつく。世界でも国によって変化し、北欧の国々では3-5mSvのレベルにあり、ブラジルやイランの一部では、年数百mSvに達す土地もある。しかし、これらの国でがんやその他の病気の発症率や死亡率が他と比べて高くないことが一般に知られている。
これら自然放射線や健康に影響する放射線レベルから考えて、1mSvまで除染することの意味はあるのか。1mSvが独り歩きし、「1mSvまで除染しなければ帰れない」や、赤ちゃんを育てる若い母親達から「子供のため、放射能のあるところには住めない」などの声があるという。被ばくを恐れるための離婚や別居など深刻な問題も発生しており、心が痛む。
被災者の放射能に対する過剰反応は、1986年チェルノブイリ原発事故の際の前例がある。今回も国連科学委員会(UNSCEAR)や世界保健機関(WHO)がその影響を懸念している。普通の生活では低い放射線を怖がる必要がないという科学的な事実を政府や責任ある組織がもっと国民に分かり易く説明すべきである。効果をほとんど期待できない除染に莫大な国民の税金を使うべきではない。
(注6)独立行政法人産業技術総合研究所報告「福島県内の除染実施区域における除染の費用に関する解析」(2013年7月23日)
(注7)原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)「電離放射線の線源、影響及びリスクUNSCEAR2013年報告書」(英語)(2013年5月)他に世界保健機関(WHO)からも同様の報告がある。
5.放射能の怖さを報道するマスメディアは被災者を救えるか?
日本のマスメディアは有用な報道を数多く発信してきたが、原発事故後特に放射能被害の報道が目立ち、多くが怖さを煽っている。(注8)
例えば、週刊現代2012年7月16, 23日号 「20年後のニッポン がん 奇形 奇病 知能低下」、サンデ-毎日2012年6月14号「セシウム米が実る秋」、AERA2012年6月19日号「見えない「敵」と戦う母 放射能から子供を守るために」。
次の年に入って、週刊文春2013年2月23日号「衝撃スクープ 郡山4歳児と7歳児に「甲状腺ガン」の疑い!」。また、原子力の専門家と称する武田邦彦氏は、その著書「エネルギーと原発のウソをすべて話そう」(2011年6月)やブログ「福島の野菜は青酸カリより危険だ」を流した。さらに、NHKが2011年12月28日に放映した「追跡!真相ファイル、低線量被ばく 揺れる国際基準」ではICRPの基準を曲解して、放射能の怖さを強調している。
記事の背景には社会的正義感があるかも知れないが、弱者救済どころか、原発事故の被災者をさらに苦境へと追い詰めている。放射能に対する恐怖を繰り返し国民に訴えることにより、脱原子力の世論の流れを作ってしまったと言える。大切な将来のエネルギーの選択を故意に誘導したとすれば、その罪は大きい。
(注8)小島正美「誤解だらけの放射能ニュース」(エネルギーフォーラム)。他に石井孝明「メディアが醸成した放射能ストレス」、「原発事故、福島で甲状腺ガンは増えていない-報道ステーションの偏向報道を批判する」(GEPR)など。
6.福島事故の終結のために
こうした政策と社会の判断ミスは、福島事故の混乱を長期化させた。長期避難のために多数の震災関連死が出た。住民不在となった故郷の荒廃が進んだ、東北の農林水産業が疲弊した。風評被害がまだ続いている。これらの主因は必要以上に厳しい安全規制であり、被害を深刻化したのは、放射能の怖さを煽るマスメディアであろう。さらに放射能や原子力を学校で教えられず、また自ら学ばなかった一部国民の意識にもあると考えられる。
日常生活は多くのリスクに囲まれているが、一つのリスク(放射能の害)を過大視することによりかえって良いものを失い、結局は社会全体としてのリスク増大に繋がることを知るべきだ。
この状況を改善するために、政府の責任ある部署が、①福島原発事故による放射能の影響の実態をもっと分かり易く国民に説明する、②汚染食品に対する安全基準を欧米並みに改定する、③長期の除染目標1mSv/年を5mSv/年に改定する、ことを提案したい。その上でエネルギー選択のための、国民的な議論の場を作り、福島事故後の混乱を終結させたい。
(2014年11月4日掲載)

関連記事
-
世界の先進国で、一番再生可能エネルギーを支援している国はどこであろうか。実は日本だ。多くの先行国がすでに取りやめた再エネの全量買い取り制度(Feed in Tariff:FIT)を採用。再エネ発電者に支払われる賦課金(住宅37円、非住宅32円)は現時点で世界最高水準だ。
-
今回は気候モデルのマニア向け。 気候モデルによる気温上昇の計算は結果を見ながらパラメーターをいじっており米国を代表する科学者のクーニンに「捏造」だと批判されていることは以前に述べた。 以下はその具体的なところを紹介する。
-
貧困のただなかにある人達は世界の大企業をどうみるだろうか。あるいは、貧困撲滅が最大の政治課題である途上国政府は世界の大企業をどうみるだろうか。
-
IPCCは10月に出した1.5℃特別報告書で、2030年から2052年までに地球の平均気温は工業化前から1.5℃上がると警告した。これは従来の報告の延長線上だが、「パリ協定でこれを防ぐことはできない」と断定したことが注目
-
麻生副総裁の「温暖化でコメはうまくなった」という発言が波紋を呼び、岸田首相は陳謝したが、陳謝する必要はない。「農家のおかげですか。農協の力ですか。違います」というのはおかしいが、地球温暖化にはメリットもあるという趣旨は正
-
5月23日、トランプ大統領は、 “科学におけるゴールドスタンダードを復活させる(Restoring Gold Standard Science)”と題する大統領令に署名した。 日本語(機械翻訳)は
-
(GEPR編集部より)この論文は、国際環境経済研究所のサイト掲載の記事から転載をさせていただいた。許可をいただいた有馬純氏、同研究所に感謝を申し上げる。(全5回)移り行く中心軸ロンドンに駐在して3年が過ぎたが、この間、欧州のエネルギー環境政策は大きく揺れ動き、現在もそれが続いている。これから数回にわたって最近数年間の欧州エネルギー環境政策の風景感を綴ってみたい。最近の動向を一言で要約すれば「地球温暖化問題偏重からエネルギー安全保障、競争力重視へのリバランシング」である。
-
国会の事故調査委員会の報告書について、黒川委員長が外国特派員協会で会見した中で、日本語版と英語版の違いが問題になった。委員長の序文には、こう書かれている
動画
アクセスランキング
- 24時間
- 週間
- 月間