今そこにある危機:英国のグリーン政策で鉄鋼産業は絶体絶命に(上)
タタ・スチールの放った衝撃
3月30日、英国の政財界に激震が走った。インドの鉄鋼大手タタ・スチールの取締役会がムンバイで開かれ、同社が持つ英国の鉄鋼事業を売却処理するとの決議を行ったと発表したのである。一定期間に買い手がつかなければ製鉄所は休止に追い込まれる懸念があり、これによってタタ・スチールが英国で雇用している従業員1万5000人と関連事業にかかわる2万5000人の合計4万人の雇用が危機にさらされることになった。
この発表を受けて、カナリア諸島で休暇中だったキャメロン首相と、オーストラリア訪問中だったジャビド産業大臣は急遽予定を切り上げてロンドンに戻り、緊急閣議を開いて、工場閉鎖や失業者の大量発生を回避すべく対策を検討し始めた。
同社はこの決定の背景として、莫大な過剰生産能力を抱えて安価な輸出攻勢を仕掛けている中国鋼材と、英国の気候変動政策がもたらしたエネルギーコストの急騰による価格競争力の喪失があることを指摘しており、同社の英国鉄鋼事業は1日あたり百万ポンド(1.6億円)の損失を垂れ流していると見られている。この事業に買い手がつかなければ、最悪の場合、製鉄所は閉鎖され大量の失業者が溢れ、製鉄所の地元コミュニティの崩壊を招く懸念が生じている(注1)。
タタ・スチールの持つ英国事業の歴史は1967年に遡る。この年、英国労働党政権は同国の民間鉄鋼会社14社の大合同を行い、国営鉄鋼会社ブリティッシュ・スチールを設立した。その後同社はサッチャー保守党時代の1988年に民営化され、さらに1999年にオランダの鉄鋼大手ホーホーベンス社と経営統合して欧州最大(当時)の鉄鋼企業、コーラス・グループとなった。
この巨大なアングロ・ダッチ鉄鋼企業「コーラス」を2007年に120億ドルという巨額を投じて買収したのが、インドの巨大な財閥コングロマリットの総帥ラタン・タタ氏の率いるタタ・スチールだったのである。粗鋼生産規模500万トン(当時)のタタ・スチールが1850万トンと3倍以上の規模を持つコーラスを飲み込んだことは、インドの財閥が旧宗主国イギリスの巨大産業を買収したことと相まって当時大きく報道された。
しかしその後08年にリーマンショックがおき、欧州経済が不況に突入する中、このタタ・スチールの欧州事業は苦難の道に突入する(注2)。輸入材との競合が特に激しい建材部門が中心の英国鉄鋼事業部門の収益は厳しくなる一方だったのだが、加えてここ数年、世界経済が減速する中で、内需の低迷から過剰能力のはけ口として輸出を増やしてきた中国が、2015年度には年間1.1億トンと、日本の年間粗鋼生産量を上回る莫大な輸出を行い、これがEU市場に大量に流れ込んで激烈な価格競争を引き起こしているのである。
(注1)タタ・スチール・ヨーロッパのオランダ事業は利益を出し続けており、ドイツのティッセンクルップと経営統合して強力な薄板鉄鋼会社を創ることを模索していると報道されている。(ウォールストリート・ジャーナル4月2日記事 “ThyssenKrupp, Tata in talks on Eurpoean Steel Tie-Up” )タタ・スチールが不採算の英国事業を処分することが、この統合が実現するための前提条件になっているとのアナリストの見解を同紙は紹介している。
(注2)タタ・スチールは2010年に不採算を続けていた英国のティーサイド製鉄所(高炉・スラブ工場)を休止した。その後2011年に同製鉄所はタイのSSI社に3億ポンドで売却され、操業を再開したものの、2015年に親会社SSIが倒産したことで同製鉄所は閉鎖され、従業員も解雇された。
英国のグリーン政策がもたらした負担
英国では、労働党政権時代の2008年にミリバンド・エネルギー気候変動大臣の主導の下、2050年までに温室効果ガスの排出を80%削減するという目標を掲げた気候変動法が成立した。さらに2010年の政権交代で就任した保守党のキャメロン首相は「これまでで最もグリーンな政府」を公約して、炭素価格制度の強化や再エネの大量導入など、気候変動対策を強化してきた。その結果、英国産業界から、欧州産業は欧州で最も高いエネルギーコストに直面することとなり、競争力を失っているとの批判を招いている(注3)。
そうした中で昨年12月、英国議会下院のBusiness, Innovation & Skills 委員会が公聴会を開き、「英国鉄鋼産業の危機への政府対応」と称するレポートを発表している(注4)。
鉄鋼に代表される、エネルギー多消費産業が直面するエネルギーコスト上昇の実態と、輸入品との競争問題について論じた同レポートでは、英国の産業用電力価格が2003年以降、再エネ賦課金、炭素価格政策等の賦課のために急激に上昇しており(図1)、その結果ドイツなど欧州他国と比べて2倍の電力コスト負担を余儀なくされているという(図2)(注5)。英国の鉄鋼産業団体(UK Steel)によると、こうした気候変動政策のために英国の鉄鋼産業が追加的に負担しているコストは年間1.3億ポンド(約200億円)にも上っており、国際競争力を著しく低下させているという。また同レポートでは政府の試算として、気候変動政策によって英国鉄鋼業が支払う電力料金が18%押し上げられていたものの、その後いくつかの補償措置が導入されて2014年には14%にまで圧縮されているとしているが、依然追加コストが賦課されていることに変わりはない。
(注3)“Energy Costs and the Steel Sector: A UK Steel Briefing”, April 2016, EEF UK Steel
(注4)“The UK steel industry: Government response to the crisis”, House of Commons, Business, Innovation and Skills Committee, First report of session 2015-16
(注5)ドイツでもFIT制度による再エネ賦課金が急増して電力価格を押し上げているが、産業の国際競争力を維持するため、産業に対する再エネ賦課金は大幅に減免する措置がとられている。一般家庭向けの賦課金にその分しわ寄せが行っており、家庭の電力料金負担は急増している。
カーボンリーケージの悪夢
4月1日付のタイムズ紙はこうした状況につき、皮肉まじりに「議会気候変動委員会の委員長デーベン卿によれば、英国の気候変動政策は世界の多くの国の羨望の的だそうである。グリーン系の集まりの場では・・」としたうえで、同じデーベン卿が、エネルギー多消費産業へのインパクトについて問われて「エネルギー多消費産業はエネルギー多消費でなくなる方策を見つけねばならない」と答えたと紹介している。
魅力的なアイディアだが、現実に起きているのは、鉄鋼労働者を、温室効果ガスを排出しない年金生活に追いやることでこれを実現しているにすぎない。そしてその雇用と生産は、石炭依存が高くエネルギー効率の悪い中国の工場に移動することで、地球規模で見て温室効果ガス排出が増えるという皮肉な結果を招いている。デーベン卿は「気候変動政策によって(生産の)海外移転がおきている証拠はない」と発言しているが、是非これをウェールズ州民の前で言ってほしいものだ、とタイムズ紙は皮肉を込めて書いている(注6)。
ウェールズ州にはタタ・スチールが持つポート・タルボット製鉄所がある。粗鋼生産能力500万トンの英国最大の高炉一貫製鉄所である。タタ・スチールはこの製鉄所だけで4000人余りを雇用し、関連事業を含めると1万5000人の雇用を提供しているという。気候変動政策がもたらすエネルギー(電力)コスト上昇によって価格競争力を失いつづければ、安価な中国鋼材に市場を奪われ続けることは容易に想定される。
タタ・スチールは4月11日に英国鉄鋼事業の売却に関してKPMGとファイナンシャル・アドバイザー契約を結び、5月28日までという期限を決めて世界中から買い手を探すと発表しているが、目下のような状況の中で果たしてPort Talbot製鉄所の買い手はあらわれるだろうか(注7)。仮に買い手がつかなければ、製鉄所は閉鎖され従業員が失業する・・しかも地球規模でCO2排出は増えてしまうことになる・・まさにタイムズ紙の書いたシナリオ通りの展開になりかねない。
英国政府はこうした事態を深刻に受け止め、あらゆる手立てを使って事態の打開策を模索しているようである。政府による一時的な国有化の可能性もささやかれているようであるが、保守党政権下で民営化された鉄鋼事業を再び保守党政権が国有化するという動きは考えにくい。ただ、4月12日付のFinancial Times紙によれば、英国政府も会計事務所のアーンスト・アンド・ヤングをファイナンシャル・アドバイザーに雇ったといい、またジャビド産業大臣は「製鉄所の買い手と共同で、(政府も)商業的に正当化できる条件の投資を行うことはありうる」と発言したということである。
(注6)“Race to go green is killing Britain’s Heavy Industries” , Matt Ridley, The Times, 4 April 2016.
(注7)タタ・スチールは同じ4月11日に英国に持つ今一つのスカンソープ製鉄所を含む条鋼部門を、グレイブルキャピタルに1ポンド(160円!)で売却することを発表している。
(下)に続く。
(2016年5月16日掲載)
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