ドイツ産業は手術台の上の瀕死の患者

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「我々は手術台の上の患者(ドイツの産業)が死にかけていることを認識しなければいけない。」
これは去る7月3日に、エネルギー多消費産業である鉄鋼、化学産業の代表格であるアルセロール・ミッタルEisenhuttenstadt製鉄所とBASFのSchwarzheide工場の労使協議会(Work Council)委員長が、同国鉱業・化学・エネルギー産業組合(IGBCE)の北東部地区委員長、ドイツで二番目に大きなエネルギー企業LEAGの労使協議会委員長と共に、連名でメルツ首相に宛てて発出した公開書簡の文面である。
ドイツにおいて大企業の最高意思決定機関は、日本企業でいう取締役会に相当する「監査役会」であり、その構成はドイツの「共同決定制度」に基づき株主代表と従業員代表が半数ずつから構成され、労働者や労働組合などの従業員代表がこの監査役会を通じて企業の経営上の最高意思決定に参画している。その労働者の権利を代表する労使協議会の企業委員長や地区代表の連名によるこの書簡の位置づけは非常に大きな重みをもっている。
同書簡は冒頭で、ドイツ産業が「第二次大戦以来最悪の経済危機に陥っており、昨年だけで少なくとも10万人の産業雇用が転職先の無い中で失われた」とし、前政権の約束した「グリーン経済の奇跡」は「空文に過ぎなかった」と厳しく糾弾した上で、2030年に向けた新たな産業経済政策の必要性を切実に訴えている。
なかでも現下のドイツのエネルギー政策が、国内にはびこる官僚主義やデジタル化の遅滞と並んで「ビジネスと地域にとって最大のリスクとなっている」ことを指摘し、もし同国のエネルギー転換が、よく言われるようにドイツ経済の開胸手術(抜本的な治療)を必要とするというのなら、それはぶざまに失敗し、「患者は手術台の上で死にかけている」ことを認識する必要がある、と危機感を訴えている。
中でも太陽光と風力発電は、過去35年にわたり優先扱いされ補助金を受けてきたにもかかわらず、30年前と比べて目に見えて安定供給に寄与することなく1兆ユーロ単位(triple-digit billion)で送配電コストを押し上げている。
また原子力と石炭火力のフェーズアウトは、不安定な太陽光と風力と高価な天然ガスの輸入への依存にドイツを押しやり、欧州一高い電気料金をもたらした。「この電気料金の高騰は社会的に正当化できないだけでなく、我々の経済・繁栄・社会の安寧を脅かしている」として、以下の改革をメルツ首相に要求している(要約):
- 電気料金は国際的に競争力ある水準にしなければならず、特に産業用電力料金は5¢/kWhが必要である。この産業用電気料金に求める水準は、政策的なCO2コストやその他の規制によって追加的に押し上げられることがあってはならない。
- エネルギー多消費の生産拠点に対して、送配電料金、再エネ配電賦課金、電力インフラへの必要容量接続費用といった費用項目の、完全かつ恒久的な免除を求める。
- 産業がもっている自家発電への現状以上の負担増の回避を求める。
- ドイツとEUが進める気候変動対策のこれ以上の早期導入を止める代わりに、世界すべての関連国が(われわれと)同等のコミットをすることの必要性に(政策を)明確にリンクさせることが必要。
- 輸出対策を含む効果的なCBAMの導入、迂回貿易の回避、実際の競争状況を踏まえた対象品目の拡大を通じて、産業をEU-ETSによる負担から守ること。
- 貿易政策のアップグレードと近代化が必要(特に対中国でのアンチダンピング、アンチ補助金の仕組み)
- 現実的な技術・目標に基づいた水素戦略の抜本的な改定が必要。「先行グリーン市場」が短期的に形成されないという現実を鑑みて、水素に代わる競争力ある代替品を利用可能としていく必要がある。
- CCUSを可能とするための、技術や産業に分け隔てしない国によるリスク補償(カバー)と、インフラ投資を含む投資促進的な政策パッケージの火急的な採択が必要。
- 火力発電所の休止のモラトリアム(休止の前に新たな安定容量が確保される必要がある)
- むやみな太陽光、風力の拡大停止(送配電能力に整合した投資のみを認可)
同書簡ではメルツ首相に以上のような具体的な要求をした上で、「ドイツ政府の誤ったエネルギー・気候変動政策を正し、われわれのエネルギー供給を再び国際的に競争力あるものにする(make our energy supply internationally competitive again)」ことを要求している(トランプ大統領のMAGAのもじりか?)。
この書簡の結びの言葉は以下のとおりである:
「この連邦政府のアクションは抽象的に産業立地としてのドイツの将来を決定するするだけではなく、間違いなく何百万という産業労働人口を決めるものになる。絵空事(empty words)を聞く時間はもう終わりだ。我々の同僚たちは何を実行するかでこの政府を見極めている。」
※ 書簡の引用部分の強調は筆者が追記
なんとも明快かつ具体的な政策要求ではないか。ここまでドイツの産業が追い込まれているという実態を表した書簡にはいささか驚かされた。
実際この書簡に署名した労組を抱えるアルセロール・ミッタル社は、ドイツ政府から13億ユーロ(約2200億円)にのぼる補助金を得てEisenhuttenstadt製鉄所を含む国内2か所の製鉄所で行う予定だった「水素製鉄」にむけた設備投資計画を中止することを、去る6月末に発表している。
同社はその理由として、グリーン水素の供給の目途が立たないことに加え、ドイツ国内の電気料金が相対的に高いことと、中国等からの輸入鋼材との競争激化を挙げており、要するに産業立地としてのドイツの競争力低下により事業化が困難となっているとしている。
これは日本にとって「他山の石」とすべきではないか? 書簡でドイツの産業は産業用電気料金について5¢/kWhを要求しているが、これは日本円に換算すると約8.5円/kWhの水準(1€=170円で換算)である。しかし実際の日本の産業用電気料金の水準は資源エネルギー庁によると、震災と原発休止前の2010年に14.33円/kWhだったものが約74%も上昇し2023年で24.89円/kWhとされており[iii]、ドイツ産業が国際競争力維持のために必要とした水準の約3倍になっている。
また、ドイツではロシアによるウクライナ侵攻の影響で高騰したエネルギーコスト高騰緩和のため、従前家庭や企業に課金されていた再エネ賦課金(EEG)について全額政府が負担する政策に切り替えている。そのうえで書簡ではエネルギー多消費産業について、電力料金(本体価格)の抑制に加えて、送配電費用、再エネ配電賦課金、容量接続費用といった電力需給にかかわる追加的な費用についても恒久的に免除することを求めているのである。
現状日本では、送配電費用の需要家負担は当たり前であることに加え、新たな工場立地や需要増に対応して産業用の高圧送配電インフラを整備し、容量を確保するためには需要側企業がそのコストを負担しなければならない。ドイツでは国が全面的に負担することになった再エネ賦課金についても、要件を満たした電力多消費企業について限定的な減免措置があるものの、基本的に産業需要家も一律に3.98円/kWh(2025年度)の賦課金負担を強いられているのが現状である。
もしドイツでは国際競争力維持のために産業用電気料金を8.5円/kWhに抑制し、さらに送配電その他の受電にかかわる賦課金や政策的費用も全額免除することが必要だというのであれば、ドイツと同様に自動車、鉄鋼、化学といった産業を抱え、それらの輸出で多額の外貨を稼いできた日本でも、産業の国際競争力維持のためにドイツと同等のエネルギーコスト抑制策が必要と考えるのが合理的というものだろう。
日本では環境派の人たちやメディアの間で、気候変動対策の「見習うべき優等生」としてドイツを称え、「日本は遅れている」と唱える声が聞かれてきたが、そのほめそやされてきたドイツのエネルギー転換(Energiewende)政策がもたらした結果が、この書簡がいう「第二次世界大戦以来最悪の経済危機」だとすると、日本は決してその轍を踏んではならない。
今後ドイツのメルツ新政権がこうした自国産業界からの「悲鳴」にどういった対応をするか、産業向けのエネルギーコスト低減に向けてどのような具体的な「産業政策」を導入するか、日本の産業関係者は、政府やメディアも含めその成り行きを凝視していく必要がある。

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