廃棄物もCO2も捨てたら価値はゼロになるのか? 炭素というレンズで読む思想史

2026年09月23日 06:40
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技術士事務所代表

「炭素は消えるのではなく、形を変えて留まる」——前稿ではバイオ炭を例に、この直感に触れた。木質バイオマスは燃やされて消えてしまうのではなく、炭化することで土壌の中に長く留まり、微生物の棲み処となって、生態系そのものを豊かにする。

だが実はこの直感、20世紀の西洋思想の中に、驚くほど近い答えをすでに出していた二人の人物がいる。

米国のエネルギー政策専門家であるロナルド・スタイン氏(Professional Engineer)と対話していると、彼はいつもこう繰り返す。

「原油やタールは、それ自体では useless だ。リファイナリー(精製)を通すことで初めて価値を持ち、我々は6000種類以上の製品を手にできる」。

これは産業論として正しい。しかし筆者は、この主張には続きがあると考えている。製品が使われ、やがて廃棄されたとき、その価値は本当に消えるのだろうか。

この問いを掘り下げていくと、20世紀の西洋思想の中に、独立してほぼ同じ結論に到達していた二人の思想家に行き着く。

ホワイトヘッドの「客体的不滅性」

数学者としてバートランド・ラッセルと『プリンキピア・マテマティカ』を著したアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、晩年ハーバード大学で独自の形而上学、いわゆる「プロセス哲学」を築いた。主著『過程と実在』(1929)で彼が提示した中心概念が「客体的不滅性(objective immortality)」である。

彼の哲学では、あらゆる存在は生成しては消滅する「出来事」の連続として捉えられる。しかし消滅は無への帰結ではない。ある出来事が到達した秩序や美は、消滅した瞬間に、次に生成する出来事の素材として組み込まれ続ける。花は枯れても、その花が到達した美しさは、次の経験を構成する要素として「客体的に」永続する。

「主体としては死ぬが、客体としては不滅である」——これがホワイトヘッドの言葉である。

オダムの「エマジー」:生態系というエネルギー会計

もう一人、フロリダ大学の生態学者ハワード・オダムは、より実証科学的な角度から同じ直感を体系化した。彼が考案した「エマジー(emergy, embodied energy)」という概念は、あらゆる産物に、そこへ至るまでに投入された太陽エネルギーの総量が刻み込まれている、という考え方である。

原油であれ、廃棄された落ち葉であれ、それが持つ価値は消費されて消滅するのではなく、より大きな生態系のエネルギー階層の中で形を変えて転写され続ける。

ホワイトヘッドが哲学の言葉で語ったことを、オダムはエネルギー収支という工学的な言葉で語り直した、と言ってもよい。

熱力学との接続

ここで興味深いのは、両者の直感が熱力学の枠組みとも矛盾しないことである。

エネルギー保存則(熱力学第1法則)は「エネルギー総量は形を変えても保存される」ことを教える。一方、エントロピー増大則(第2法則)は「利用可能な質(エクセルギー)は劣化していく」ことを教える。

スタイン氏の「useless → valuable」という主張は、実はこのエクセルギーの議論にも通じるものであり、リファイナリーは価値を新たに創造しているのではなく、人間にとって利用可能な形へ変換している、と捉えることができる。

しかし、人間にとっての有用性が失われた地点が、地球にとっての終着点ではない。廃棄物は土壌菌類や植物によって別の形に読み替えられ、土壌形成という別のエネルギー階層へと組み込まれていく。排出されたCO₂もまた、光合成というプロセスを通じて活かされ、生命を形づくり、生かし続ける。

ホワイトヘッドの言葉を借りれば、産業システムの中での「死」は、より大きな生態系というプロセスの中での「客体的不滅性」への移行に過ぎない。

炭素という元素を通して見えるもの

炭素という元素の本質は、まさにこの「組み立てる力」と「自らを犠牲にして他を活かす力」の二重性にある。この二重性は、比喩ではなく、ホワイトヘッドの形而上学とオダムの生態エネルギー論という、独立した二つの知的系譜がすでに描き出していたものだった。

前稿では、炭素という元素が、科学の枠を超えて思想や霊性の対象にもなってきたことにも触れた。ルドルフ・シュタイナーの元素論を読み解いた板野肯三氏の仕事は、その一例である。

ホワイトヘッドとオダムもまた、専門分野では権威でありながら、一般にはほとんど知られていない思想家である。だが両者が、東洋の霊性とは異なる回路——形而上学とエネルギー会計——から、同じ「価値は消えるのではなく、形を変えて受け渡される」という直感に到達していたという事実は、この直感が特定の文化圏に閉じたものではなく、人間が自然を見つめるときに繰り返し発見してきた、普遍的な洞察であることを示唆している。

日本には、朽ちゆくものの中に美を見出す「侘び寂び」という感性がある。西洋の読者には縁遠く思えるかもしれないこの感性も、実は同じ直感——価値は消えるのではなく、形を変えて受け継がれる——を、美意識という別の言語で語ってきたのだとも言える。

炭素やCO₂を、脱炭素という用語で一刀両断するのではなく、大自然が長い時間をかけて蓄積してくれた化石燃料という炭素資源を、「勿体ない」精神で大切に使い切る。CO₂も「廃棄物」ではなく「資源」として捉え直す。無駄な排出を避け、炭素の循環に感謝しながら賢く生活する。不透明な時代だからこそ、それが求められているのではなかろうか。

炭素という一つの元素を軸に据えることで、産業論、哲学、生態学、そして美意識までもが、一本の糸でつながって見えてくる。

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