しきい値なしのモデルとリスク受容の課題

2014年07月28日 17:00
アバター画像
産業技術総合研究所名誉フェロー

(GEPR編集部より)この論文は、日本学術会議の機関誌『学術の動向 2014年7月号』の特集「社会が受け入れられるリスクとは何か」から転載をさせていただいた。許可をいただいた中西準子氏、同誌編集部に感謝を申し上げる。

1.リスク受容の課題

ここで述べるリスク受容の課題は、筆者がリスク評価研究を始めた時からのもので、むしろその課題があるからこそ、リスク評価の体系を作る必要を感じ研究を始めた筆者にとって、ここ20年間くらいの中心的課題である。

今回、福島第一原子力発電所の事故とその除染に関して、具体的にこの問題に直面することになった。放射線による固形がんリスク(大まかに考えて死亡率)の大きさは、広島・長崎の寿命研究の結果、被ばく線量に比例することが分かっているが、これは高線量域のことであって、100ミリシーベルト(mSv)以下の低線量域ではその関係を実測値で確かめることができない。

そこで、この領域では、直線しきい値なし(LNT)のモデルを仮定しリスクを推定している。国際放射線防護協会(ICRP)や、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)も低線量域でのリスク推定にこのモデルを使っている。ただし、ここで推定されたリスクの大きさに集団の人数をかけて、集団の中で健康影響を受ける人数(例えば、がん患者数など)を算出する目的に使ってはいけないとしている。

福島で問題になる被ばく線量は、当初考えられていた値より低く、100 mSv以下の領域なので、通常のリスク受容問題の難しさに加えて、LNTによる推定値は正しいのかという議論が上乗せされ、混乱が増している。

2.国直轄除染事業地域の概略

ここでは、国が直轄で除染を進めている除染特別地域(11市町村)を対象に話を進める。

避難指示区域と計画的避難区域がここに含まれる。2013年末、国は除染後の帰還に関する方針をだし、年間被ばく線量が20 mSv以下なら帰還可能だが、長期的には年1 mSv以下をめざすとしている。しかし、20 mSvや1 mSvがどの程度のリスクの大きさに相当するのか、何故、その数値なのかについては、“ICRPにおける放射線防護の考え方を踏まえ”と言っているだけで、何も説明していない。他方避難した人々は、1 mSv/年でなければ帰還できない、帰還しないとの強い主張を続けている。

我々は、土地の用途と除染効率を考慮して、除染後の線量を推定したが、1 mSv/ 年以下になる地域はきわめて限られている。この当初計画の除染の費用は1人当たり概ね5000万円程度で、しかも、技術的な面から見ても限界に近く、さらに投資すれば、放射線量が劇的に低下するということも望めない状況である。

1 mSvが無理だとしたら、どうすればいいか?これ以下なら帰還可能という別のレベルを決めなければならない。選ばなければならない。

個人ならば、ばらばらでいいが、国が一度は避難指示を出し、それを解除するのであるから、国としての一定の値を示さなければならない。20 mSv/年のレベルでは、話し合いも始まらない状況である。では、どのリスクのレベルが適切か?

3.除染目標値の提案

誰も、何も言わない閉塞状況を打破したいと考えた筆者は、自分なりの提案をした。そのとき、こう書いた:「除染目標値の提案-正解はないが、解を見つけるべきだ-」。

その数値の検討の前に、注意して頂きたいことが二つある。一つは、これまで、帰還時の年間被ばく量で議論されているが、そこに居住する期間を考慮した累積線量で考えるべきことである。例えば、15年間居住を仮定すると、20mSv/年で帰還すれば、物理学的崩壊を考慮しても153 mSvになる。リスクはこの値を基に計算しなければならない。もう一つは、これまで国が出してきた式で計算された外部被ばく量は、過大になっているから、リスクを計算するにはそれを修正しなければならないことである。

わが国では、原子力安全委員会が当初に出した方針にしたがって、空間線量に建物による遮蔽を考慮した係数0.6をかけて、実効線量(外部被ばく量)を計算してきた。しかし、この計算式は適切ではなく、現実の外部被ばく量はこのように計算された値の1/2 ~ 1/3であることが分かった(詳細は、拙著『原発事故と放射線のリスク学』(日本評論社)、15 ~ 20頁を見て頂きたい)。

何故、こういう過大評価が行われ、未だに修正されないのかの理由は分からないが、筆者のこの指摘は広く受け入れられているし、福島県内で実施されている個人線量の測定結果によっても裏付けられている。

こういうことを考慮し、筆者は、安全とリスク、帰還時期と人口、費用、技術の限界、さらに他のリスクとの比較などを考えて以下の提案をした。

A.避難指示解除条件として、20 mSv/年は高すぎる。非常時、このリスクレベルを認めることが必要なこともあろうが、事故後3年も経って帰還する基準としては高すぎる:その理由①20 mSv/年はそもそも職業被ばくの基準値である、②15年間居住した場合の累積被ばく線量は153 mSvになってしまう。

B.除染目標値として以下の提案をする:①その集落(旧村程度)の15年間の平均的累積被ばく線量は50ミリシーベルトを超えない、高い家屋があったとしても100ミリシーベルトを超えない、②15年間で、個人線量を長期的目標の1mSv/年以下にする、③この二つの条件を満たす、帰還時外部被ばく量は7 mSv/年程度であるが、目標値をきりのいい5 mSv/年とする、④この場合の15年間の累積被ばく線量は約38 mSvである。

帰還時5 mSv/年であれば、ウエザリングなども考慮すれば約6万人がこの条件を満たす。原発事故以前のこの地域の人口の約7割に相当する。また、がれきの仮置き場を確保できれば、時間的にも1年以内に完成するし、当初予算の中で可能となる。

目標値を2.5 mSvにした場合には帰還人口が余りにも少なくなる、また、10 mSvにすると地区の中にかなり高い家屋がでてきて虫食いのようになりがちということも考えて5 mSvとした。

4.この提案の根拠

まず、累積被ばく線量で100 mSvを超えないようにしたいと考えた。別に100 mSv以下ならリスクがゼロというわけではないが、広島・長崎の研究から、このことが原因でがんが増えたと証明できない程度のレベルであり、このファクトは皆が共有できるものである。したがって、それを一つの尺度にした。ある場合には、その2倍は認めざるを得ないとかいうこともあろうが、今回は実現可能性も考慮して100 mSvを超えない、平均として40 mSvとした。

このレベルなら、大きな問題にならないと判断したもう一つの理由は、多くの医師がこの程度のがんリスクは生活習慣などを見直すことで取りかえしのつくレベルだと言っていること、そういうデータもかなりあるからである。

では、15年間で約40 mSvというのは、どのくらいのリスクなのだろうか? 先に述べたLNTモデルを用い、さらに、線量・線量率係数(DDREF)=2として計算した。広島・長崎のデータは人のデータであり、しかも、60年以上も丁寧に追跡調査が行われた貴重なものだが、被害は一瞬の被ばくで起きたものである。

同じ、100 mSvと言っても今回のように10年も20年もかかって100 mSv被ばくした場合とは異なるだろう、その補正のための係数がDDREFであり、ここではICRPの考えを踏襲し、リスク値は一瞬の被ばくの場合の1/2となっている。

その結果は2×10-3 のがんのリスクとなり、化学物質のリスクなどとくらべて特に大きいということもない。こういうことから、できるだけ早く帰還することのために、我慢できるリスクレベルではないかと考え、この数値を提案した。ただ、ふるさとに戻ってもかつての仕事がない方、あるいは、放射線の影響についてどうしても納得できない方には、移住の選択肢もあるとした。

5.ゼロリスクに逃げてはいけない

100 mSv以下に抑えるとしても、0 ~ 100mSvの間のどこかを選ばねばならない。ICRPが1 ~ 20 mSvの間と言っているのも、実は、他の原因による死亡リスクとの比較がもとになっている。しかるに、わが国では、リスクが0でないからできるだけ減らせ、1 mSv以下にすべきという意見と、100 mSv以下は問題ないという意見が真っ向からぶつかっている。

どこまで減らしても危険という人と、100 mSv以下なら全く問題がないという意見に別れているが、どちらも、リスクの大きさに言及していない。どこまで減らしても危険という主張は、所謂ゼロリスク論である。

後者の意見は、放射線の専門家グループの意見で、あたかもリスクを受け入れることを勧めているように聞こえるが、よく聞くと、これまたゼロリスク論である。LNTは認めると言いつつ、それを使ってリスク評価をすべきではない、なぜなら、放射線防護や管理の立場から、LNTを仮定しているのであって、これは生体反応の実態ではないし、推定にすぎないからと言う。0 ~ 100 mSvの間のリスク推定を否定しつつ、100 mSv以下は大丈夫と主張するのは、100 mSv以下のリスクはゼロですと言っていることと同義である。

推定を否定すれば、予防医療や安全対策は成り立たない。推定式としてLNTよりましなものがあれば、それを使えばいいが、ないのであればこの式から推定されるリスクの値を基礎にして、できるだけ科学的な意思決定をするように努力した方がいいと思う。放射線問題は、リスク受容という課題の試金石になっている。

中西準子(なかにし じゅんこ)
独立行政法人産業技術総合研究所フェロー、横浜国立大学名誉教授。
専門:環境リスク評価・管理。

(2014年7月28日掲載)

This page as PDF
アバター画像
産業技術総合研究所名誉フェロー

関連記事

  • 【記事のポイント】1・反対派と話し合うことで、提案することが問題解決の鍵。2・過去の環境保護運動では事実と証拠を重視した。今はムード重視の雰囲気が広がる。3・国民が正確な情報に基づき、自分の意思で決断を重ねるとき。4・除染対策ではコスト、効果の分析が必要。
  • 台湾が5月15日から日本からの食品輸入規制を強化した。これに対して日本政府が抗議を申し入れた。しかし、今回の日本は、対応を間違えている。台湾に抗議することでなく、国内の食品基準を見直し、食品への信頼感を取り戻す事である。そのことで、国内の風評被害も減ることと思う。
  • 福島原発事故以来、環境の汚染に関してメディアには夥しい数の情報が乱れ飛んでいる。内容と言えば、環境はとてつもなく汚されたというものから、そんなのはとるに足らぬ汚染だとするものまで多様を極め、一般の方々に取っては、どれが正しいやら混乱するばかりである。
  • 固定価格買取制度(FIT)等の再エネ普及制度では、賦課金を上回る費用が、国民の負担となっていることから、賦課金総額とともに、追加費用を推計した。追加費用とは、再エネ電力の買取総額から、買取によって不要となる発電部門の燃料費等の可変費を引いた費用である。
  • 1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原子力発電所原子炉の事故は、原子力発電産業においてこれまで起きた中でもっとも深刻な事故であった。原子炉は事故により破壊され、大気中に相当量の放射性物質が放出された。事故によって数週間のうちに、30名の作業員が死亡し、100人以上が放射線傷害による被害を受けた。事故を受けて当時のソ連政府は、1986年に原子炉近辺地域に住むおよそ11万5000人を、1986年以降にはベラルーシ、ロシア連邦、ウクライナの国民およそ22万人を避難させ、その後に移住させた。この事故は、人々の生活に深刻な社会的心理的混乱を与え、当該地域全体に非常に大きな経済的損失を与えた事故であった。上にあげた3カ国の広い範囲が放射性物質により汚染され、チェルノブイリから放出された放射性核種は北半球全ての国で観測された。
  • 筆者は、三陸大津波は、いつかは分からないが必ず来ると思い、ときどき現地に赴いて調べていた。また原子力発電は安全だというが、皆の注意が集まらないところが根本原因となって大事故が起こる可能性が強いと考え、いろいろな原発を見学し議論してきた。正にその通りのことが起こってしまったのが今回の東日本大震災である。続きを読む
  • 私の専門分野はリスクコミュニケーションです(以下、「リスコミ」と略します)。英独で10年間、先端の理論と実践を学んだ後、現在に至るまで食品分野を中心に行政や企業のコンサルタントをしてきました。そのなかで、日本におけるリスク伝達やリスク認知の問題点に何度も悩まされました。本稿では、その見地から「いかにして平時にリスクを伝えるのか」を考えてみたいと思います。
  • 内閣府のエネルギー・環境会議が出した「選択肢」を見て、少しでもエネルギーを知るものは誰もがあきれるだろう。稚拙すぎるのだ。そこで国民の3つの選択肢のひとつとして「原発ゼロ」が示されている。

アクセスランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事

ページの先頭に戻る↑