産業空洞化に揺れる欧州:見直しを迫られたEU-ETS

7月17日、欧州委員会は脱炭素に向けた基幹政策である「EU排出量取引制度(EU-ETS)」の規制緩和案を発表した。企業に求める排出枠の削減ペースを緩やかにすることで、負担を軽減することが主な内容だ。
脱炭素政策に募る欧州産業界の不満
もともと欧州の産業界、特にエネルギー多消費産業は、フォン・デア・ライエン委員長の下で推進されてきた脱炭素政策に対して厳しい目を向けていた。
欧州委員会と基幹産業の対話を目的に設置された「アントワープ対話」の2月会合には、フォン・デア・ライエン委員長のほか、マクロン仏大統領、メルツ独首相なども出席した。力の入った会合だったが、その場で示された産業界のコメントは、以下のように辛辣なものだった。
- 欧州委員会の脱炭素目標は、技術・市場の成熟度を無視している。電力・水素・CCSなどの前提条件が未整備のままであり、実装可能性より政治的野心を優先している。
- 米国や中東、アジアとの価格差は縮まるどころか開いている。電化政策は高コストを前提にしており、安価で安定した電力の確保策が不明確である。このため、多くの企業が投資を欧州外へシフトさせている。
- 多くの脱炭素関連制度(ETS、CBAM、タクソノミー、報告義務など)が重複しており、相互関係も複雑である。許認可に何年もかかる。
- 産業に対する補助金の規模が小さい一方、補助金を付与するための手続きが複雑で時間がかかる。
- エネルギー転換を標榜しながら、それに不可欠な送電網、再エネ容量、水素供給網、CO2輸送・貯留などのインフラ整備がまったく進んでいない。
- 域内の競争条件の公平化を理由にした各国の国家補助に対する制約が厳しすぎる。各国で大規模な産業政策を迅速に実施できないため、米国や中国に比べて不利になっている。
EU-ETSとCBAMに集中する批判
7月までに見直し案が出されるEU排出量取引制度(EU-ETS)と、水際措置としての炭素国境調整措置(CBAM)についても、多くのコメントが出された。
- EU-ETSにおける高水準の炭素価格は競争力をそぐ。世界の主要競合国には同様の制度がない。ETSコストの抑制と価格の安定化が不可欠である。
- CBAMは輸入品と域内産品の競争条件をそろえることには有効だが、輸出還付がないため、輸出市場における競争条件の公平化は確保されていない。このため、CBAMはEU-ETSの無償割当廃止の代替として不十分である。
- 無償割当はCBAM導入と引き換えに2034年までに段階的に廃止されることになっているが、無償割当の延長が不可欠である。
- ETSの収入を、イノベーション基金の拡充、低炭素製品の需要創出、電力価格支援などを通じて産業界に還元すべきである。
- 監視・報告義務など、EU-ETSに伴う規制負担を簡素化すべきである。
- その上で、産業界からは「このままでは脱炭素より先に産業空洞化が進み、欧州から産業が消える。欧州は輸入依存型経済になり、戦略的自律性を喪失する」との強い危機感が提示された。
ドイツ商工会議所が会員企業に対して毎年行っている事業環境アンケートの2025年の結果を見ても、「国内および欧州の排出権取引におけるCO2価格の上昇につながっても、排出量取引をさらに拡大すべき」との意見に同意する企業は3分の1(34%)にとどまり、40%はまったく同意しないとの結果が出ている。2023年以降、この意見への賛同は減少しており、その傾向は特に製造業分野で強い(反対45%)。
排出枠削減のペースを大幅に緩和
こうした背景もあり、今回の規制緩和案では、EU-ETSの価格シグナルを維持する一方、企業がより多くの時間をかけて脱炭素投資に取り組めるよう、企業に義務付ける排出枠の年間削減率を、現在の4.3%から2031~35年には3.7%、2036~40年には1.7%に引き下げた。
また、大量の温室効果ガスを排出する鉄鋼やセメントといった業界に対する排出枠の無償割当も、脱炭素化のための投資計画の提出を条件に、適用期間を2038年まで延長することとした。
他方、ETSの対象分野は拡大され、従来の工場などに加え、都市部のごみ焼却施設や小型船舶、一部の国際線も対象となる。
今回の案はあくまで欧州委員会の提案であり、7月23~24日に環境相理事会で初の意見交換が行われた。9月には欧州議会とEU理事会で条文審議が行われ、最終的には2026年末~2027年前半に、トリローグ(欧州議会、欧州委員会、EU理事会の三者協議)で政治合意を目指すことになる。
規制緩和を巡って割れる加盟国
欧州委員会の提案への反応もさまざまだ。加盟国は、「排出削減速度のさらなる緩和、無償排出枠のさらなる延長など、一段の緩和が必要だ」と主張するポーランド、イタリア、チェコ、ハンガリー、ブルガリア、今回の提案をおおむね支持するドイツ、フランス、オランダ、「今回の提案は緩すぎる。2050年カーボンニュートラルの信頼性を損なう」と反発する北欧諸国やスペインなどの3つのグループに分かれている。
欧州の産業界団体であるビジネス・ヨーロッパは、次のようにコメントしている。
「欧州委員会がEU ETSの改革が急務であることを認識したことは重要である。脱炭素化は、企業の競争上のニーズを認識した上で進められなければならず、さらなる産業空洞化を招いてはならない。
欧州委員会の提案は、排出削減のペースや無償割当の段階的廃止といった主要な要素に対処しているが、これらのパラメータに関する具体的な数値や詳細が初めて提示されたため、加盟企業と共にその影響を評価する必要がある。例えば、無償割当に関する新たな条件付けは、行政手続きの複雑化を招く恐れがあり、また、国際的な炭素クレジットの役割が不透明である点は不満足である。」
とりわけ、欧州鉄鋼連盟などのエネルギー多消費産業は、さらなる緩和を求めている。
理念より産業競争力を優先できるか
これに対し、環境団体は「ETS創設以来最大の後退だ」と強く反発している。
しかし、今回の見直し案は、これまで理念的な政策をひたすら推進してきた欧州委員会も、産業空洞化のリスクに向き合わざるを得なくなったことを示している。最終結論が出るまで、さまざまな方向から圧力がかかるだろうが、緩和措置が圧縮されれば、産業界を欧州域内にとどめることはもはや不可能であろう。
関連記事
-
年明けからエネルギー価格が世界的に高騰している。その理由は様々な要素が複雑に重なっており単純には説明できないが、コロナ禍からの経済回復により、世界中でエネルギー需要が拡大するという短期的な要因に加えて、長期的な要因として
-
AIナノボット 近年のAIの発展は著しい。そのエポックとしては、2019年にニューラルネットワークを多層化することによって、AIの核心とも言える深層学習(deep learning)を飛躍的に発展させたジェフリー・ヒント
-
アゴラ研究所の運営するエネルギーのバーチャルシンクタンクであるGEPR(グローバルエナジー・ポリシーリサーチ)はサイトを更新しました。
-
いま東芝をたたくのは簡単だ。『東芝解体』のように正義漢を気取って、結果論で東芝を批判するのは誰でもできる。本書のタイトルはそういうきわものに見えるが、中身は10年近い取材の蓄積をもとにしている。テーマは経営陣の派閥抗争な
-
アゴラ研究所の運営するネット放送「言論アリーナ」。今回のテーマは「次世代原子炉に未来はあるか」です。 3・11から10年。政府はカーボンニュートラルを打ち出しましたが、その先行きは不透明です。その中でカーボンフリーのエネ
-
日独エネルギー転換協議会(GJTEC)は日独の研究機関、シンクタンク、研究者が参加し、エネルギー転換に向けた政策フレームワーク、市場、インフラ、技術について意見交換を行うことを目的とするものであり、筆者も協議会メンバーの
-
ドイツでは先月ついにガソリン車のシェアを抜く 欧州においては官民一体でのEVシフトは急激に進んでいる。先月2021年11月のドイツのEV(純電気自動車:BEV、プラグインハイブリッド車:PHEV)のシェアは34%を超えて
-
消費税と同じく電気料金は逆進性が高いと言われ、その上昇は低所得者層により大きなダメージを与える。ドイツの電力事情④において、ドイツの一般家庭が支払う再生可能エネルギー助成金は、2013年には3.59 ユーロセント/kWh から約 5 ユーロセント/kWh に 上昇し、年間負担額は185ユーロ(1万8500円)にもなると予測されていることを紹介した。
動画
アクセスランキング
- 24時間
- 週間
- 月間















