「国際協調の前提」とは何だったのか:三菱商事の目標修正が問うもの

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2026年5月1日、三菱商事の中西勝也社長は決算記者会見で、2030年度までの脱炭素目標を修正した理由をこう説明した。
「中東情勢を含めて地政学リスクが顕在化した。脱炭素社会への国際協調の前提が揺らいでいる」。
この発言は短いが、深い問いを内包している。「国際協調の前提」とは、いったい何だったのか。
国際協調という幻想
「国際協調」という言葉は、外交の場で頻繁に使われる。「戦略的互恵関係」「多国間主義」「グローバル・ガバナンス」——こうした言葉が並ぶとき、そこには暗黙の前提がある。各国が共通の目標を持ち、互いを信頼し、国益を超えて協力できるという想定だ。
しかし国際政治の現実は、そうした理想とはかけ離れている。国家はパワーバランスの中で行動し、国益を最優先し、相手への不信を前提として戦略を組む。「協調」とは多くの場合、利害が一致している間だけ成立する一時的な状態であり、根底にあるのは信頼ではなく計算だ。政治学者ジョン・ミアシャイマーが喝破したように、国際社会に中央権力は存在せず、各国は常に相対的な力の維持を優先する。「協調」はその手段であって、目的でも本質でもない。
脱炭素をめぐる「国際協調」も例外ではなかった。COPという枠組みは、加盟国が気候変動という共通の脅威認識を持ち、それぞれの利害を調整しながら排出削減に取り組むという建前で運営されてきた。だが現実には、中国は国内の石炭火力を増設し続け、インドは経済成長を優先し、産油国は化石燃料収入の維持を国家存立の条件とみなした。先進国内でもトランプ政権の登場がパリ協定からの離脱を二度にわたってもたらした。
「国際協調」は、実際には参加国の国益計算が偶然に重なった局面でのみ機能する、きわめて脆弱な構造だったのである。
三つの暗黙の前提
脱炭素政策が国際的に推進されてきた背景には、少なくとも三つの暗黙の前提が積み重なっていた。
第一は、科学的前提である。CO₂が気候変動の主因であり、その削減が地球環境を救うという命題を、各国政府・企業・国際機関が共有しているという前提だ。IPCCの評価報告書がその権威的根拠とされ、疑義を挟む余地は「科学的コンセンサス」という言葉で封じられてきた。
第二は、地政学的前提である。主要国が大きな軍事的対立なく共存し、貿易・投資・エネルギー供給網がグローバルに安定して機能するという前提だ。COP(国連気候変動枠組条約締約国会議)という枠組みそのものが、この「平和な多国間協調の世界」を前提としている。
第三は、経済的前提である。再生可能エネルギーのコストが急速に低下し、化石燃料との競争力を近い将来に逆転させ、エネルギー安全保障と脱炭素化を同時に達成できるという前提だ。
三菱商事が21年に「2030年度までにGHG排出量を半減、2050年にネットゼロ」という目標を掲げたのは、この三つの前提が同時に成立しているという判断のもとだった。
前提はどこで崩れたか
しかし現実は、これらの前提を次々と侵食してきた。
地政学的前提については、2022年のロシアによるウクライナ侵攻がすでに深刻な亀裂を入れていた。欧州はロシア産天然ガスへの依存を断ち切るため、むしろ石炭火力を一時的に復活させ、LNG調達を世界中で奪い合う事態となった。エネルギー安全保障と脱炭素化の両立が、いかに脆弱な前提の上に立っていたかが露わになった瞬間だった。
さらに2026年2月、米国とイスラエルによるイランへの攻撃は、中東のエネルギー地政学を一変させた。ホルムズ海峡を経由する原油・LNG輸送への懸念が現実のものとなり、安定調達を前提とした再エネ移行シナリオは根底から問い直されることになった。
ここに、見逃せない逆説がある。国連気候変動枠組条約(UNFCCC)のサイモン・スティール事務局長は、この米・イスラエル-イラン紛争を「再生可能エネルギー移行を加速させる」と論じた。エネルギー安全保障への危機感が、化石燃料依存からの脱却を促すという論理だ。
しかし三菱商事は、まったく同じ地政学的事象を根拠に、天然ガス(LNG)への回帰を判断した。同一の現実から正反対の結論が導かれたことは、脱炭素政策の論理構造そのものの脆さを示している。
「前提」は政策の免罪符ではない
翻って考えれば、三菱商事の今回の修正は、企業としての誠実な現実認識の表れともいえる。だが同時に、一つの重大な問いを突きつける。
もともと「脱炭素社会への国際協調の前提」が安定していると言えたのは、いつの時点だったのか。ウクライナ侵攻前か。トランプ第二次政権発足前か。それとも、そのような「前提」は最初から、政策的希望と政治的合意の産物に過ぎなかったのではないか。
日本の国会では今年、脱炭素政策のCO₂科学的根拠を問われた大臣が、正面から答えられなかった場面があった。政策の「前提」が問われたとき、答えられないというのは、その前提が実は検証されたものでなく、「信じられているもの」に過ぎないことを示している。
三菱商事の社長は「国際協調の前提が揺らいでいる」と言った。しかしより正確には、「その前提が揺らいで初めて、前提の存在に気づいた」のではないだろうか。揺らがなければ問われなかったものが、本当に堅固な前提と呼べるのかどうか。
エネルギー政策に必要な「前提」とは何か
エネルギー政策において本当に揺らがない前提は一つしかない。物理法則とエネルギー収支の現実、そして人間社会が安定した生活水準を維持するために必要な供給の信頼性だ。
再生可能エネルギーの意義を否定するものではない。しかしそれは、エネルギー安定供給・価格受容性・環境性という三つの条件を同時に満たしながら、段階的に移行していくものでなければならない。化石燃料は今なお、農業・医薬・素材産業のサプライチェーンを根底で支える原料資源でもある。
再生可能エネルギーは発電はできても、我々が必要とするものの原料にはなり得ず、電力を供給するだけだ。さらに、均等化発電コスト(LCOE)でさえ、補助電源・蓄電池・系統補強コストを加味すれば、再エネは火力・原子力の数倍に達する。
三菱商事が示したのは、まさにこの現実への回帰だ。「脱炭素」を絶対目標として設定し、他の条件を従属変数に置くモデルではなく、エネルギーの安定供給・経済合理性・環境配慮を並立させる「炭素共生(Carbon Symbiosis)」という発想こそ、今後のエネルギー政策の軸となるべきではないか。
「前提が揺らいでいる」のではない。揺らいではいけない前提を、最初から間違えていたのだ。
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