亀裂が顕在化するEUの排出権取引政策

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イタリアの反旗:メローニ政権が求める「ETSの一時停止」
EUの気候変動対策のフラグシップ政策である排出権取引制度(EU-ETS)に深刻な亀裂が生じている。さる3月19日に開催されたEU閣僚理事会(サミット)を前にして、メローニ首相率いるイタリア政府は「ETSの運用を一時停止して抜本的な見直し」を行うように公然と欧州委員会に求めたというのである。
メローニ首相自身が2月末に、「急速に変化する世界情勢の中でEUが対応するには、域内市場の強化、行政負担の軽減、規制の簡素化を加速する必要がある。その優先事項はエネルギーコストの引き下げだ。」とした上で、「競争相手より構造的に高いエネルギーコストに直面する企業に国際競争を強いることはできないので、3月の閣僚理事会で具体的な答えを引き出すと約束した。」と発言したことが報道されている注1)。
さらにイタリアのウルソ産業大臣は、より突っ込んだ表現で「EU-ETSは欧州企業に対する“追加的な課税制度”であり、産業競争力を毀損している。我々は排出量ベンチマークと無償配賦メカニズムの徹底的な見直しが行われるまでの間、無償配布枠の段階的な削減の延期を含めて、ETSの運用を一時停止するよう欧州委員会に要請する。」と公式に発言した。これを受けてEUの排出権(EUA)価格はたちまち5%も急落したという。
エネルギー価格が高騰する中、イタリア政府は自国産業界からの切実な要請を受けて、EU-ETSの下で電気代に課されている炭素価格の負担を卸電力価格から免除することで、高騰する天然ガス火力の電力価格を押し下げる計画というが、発電事業者へのETSの免除は現行のEU法の規定に反することになるため、イタリア政府はEUの政治的な同意を求めていくとも報道されていた注2)。
中東欧諸国への波及:10か国による共同声明と「拙速な脱炭素」批判
3月のEU閣僚理事会の前日の3月18日には、このイタリアの動きに同調する主に中東欧系の10か国(イタリア、オーストリア、チェコ、クロアチア、ギリシャ、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、スロバキア)が、① ETSの無償枠の配賦を2034年以降も続けること、② 28年から予定されている無償配賦の段階的縮小の延期、③ 炭素価格のボラティリティの抑制、そして④ 電気代の高騰抑制策を求める書簡に署名し、欧州委員会に提出したという注3)。
書簡では「EUの炭素市場は拙速すぎて、高騰するエネルギーコストと頑強なインフレに締め上げられている産業に追い打ちをかけている。その結果ヨーロッパの産業の中核を脅かし、欧州大陸の経済成長の脅威となっている」と警告し、さらに「エネルギー価格はうなぎのぼりでインフレは(脱炭素への)トランジションに必要な投資のコストを押し上げている。
現状の脱炭素解決策(技術)は削減が困難な産業にとってサステナブルな経済性をもたらすには未だ未熟だ」と拙速な欧州の気候変動対策を批判している。
産業界の悲鳴と広がる「ETS見直し」の共通認識
これに先立つ2月12日にベルギーのアルデン・ビッセン城で開かれた非公式なEUの産業サミットでも、招かれた欧州のエネルギー多消費産業(鉄鋼、セメント、化学、アルミニウム、セラミック等)の代表が、口をそろえてEU域内の高騰する電気代、カーボンコストにより国際競争力を喪失しており、火急的なコストの引き下げが必要であると訴えたという。
また2月26日に開催されたEU競争力会議の前夜に、会議に向けてポジションの調整のため集まった13か国(イタリア、オーストリア、クロアチア、チェコ、フランス、ドイツ、ルクセンブルグ、ポーランド、ポルトガル、スロバキア、スペイン)の産業大臣が共同で宣言をまとめている。
そこでは欧州域内産業の崩壊を防ぐために「7月に予定されるETSの改革案には、排出権市場の安定性を伴う効果的な価格シグナル、予見性確保、過剰なボラティリティからの保護、無償配布への現実的なアプローチを求める」とし、「ETSの改定は欧州産業の競争力を支持し、革新的技術への投資を強化することを目指すべきだ。EU全体の排出総量上限の引き下げ(強化)は、産業界が高炭素価格、市場のボラティリティ拡大、流動性の制限に晒されるリスクとなる。」などとして、ETSの環境政策について警告を発しており、加盟各国の産業が抱く危機感を露わにしている。
EU-ETSの見直しが必要ということはEU主要国の共通認識となってきたとみてよいだろう。
EU閣僚理事会での激突:南北対立とフォン・デア・ライエンの譲歩
そして3月19日、いよいよ各国首脳が集まるEU閣僚理事会(首脳会議)が開かれた。理事会ではウクライナ支援のための900億ユーロに上る資金融資をめぐりハンガリーのオルバン首相が強硬に反対して紛糾し、会期が20日未明まで続いたとされているが注4)、このETSの改革についても議論が紛糾したという。
ETSの抜本的な改革を求めて書簡を送った10か国や、さらに電力部門のETS運用の緊急停止まで求めたイタリアに対し、デンマーク、オランダ、フィンランド、スェーデン、スペインなど北部中心の諸国は、現行のETSを堅持するよう求める反対のポジションをとり、議論が対立したという。
最終的には欧州委員会のフォン・デア・ライエン委員長が3月19日付の声明で理事会の結論を以下のように明らかにしている注5)。
先ず「加盟各国はエネルギーコストの上層に対して国家援助措置(State Aid)を使うことができる。そして我々は、この目的のために国家援助措置の活用における柔軟性をさらに高める。我々はまた、発電に関する燃料コストの影響をさらに緩和するために、国内スキームを策定する加盟国と緊密に協力することで合意した。」としており、これは明らかに電力部門のETS停止を求めたイタリアに配慮したもので、今後具体策について欧州委員会とイタリアが協議することになるのだろう。
示された「緩和」の具体策:無償枠の拡大と脱炭素支援基金
またETSによる炭素価格負担への批判について、声明では4つの対策を掲げている。先ず「短期的な対策として産業界の懸念を考慮した無償配賦のベンチマークを更新すること、排出権価格の変動を抑制するためETSの市場安定準備金(MSR)の攻撃力(価格調整力)を拡大することを数日以内に実施に移す」としている。
この文脈の中で企業への無償枠配布量を決めるベンチマークを見直すということは、無償枠の拡大を意味することは間違いないと思われる。
さらに声明では中期的な対策として「ETSの改革を通じて、2034年以降の産業に対するより現実的な無償配賦の(削減)径路と、海運セクターへの公平な競争環境の確保に取り組んでいく。これらは加盟国、利害関係者と調整しながら進めていくことに合意した」とされている。2034年でETA対象産業への無償枠をゼロとして、すべての排出量に炭素価格を課すという政策も見直されることになるのだろう。
また「産業界が必要とする財政支援を提供するために、4億トン分の排出権を財源として、産業の脱炭素プロジェクトに充てる300億ユーロのETS投資加速器(Investment Booster)を提案する」としている。要するに現行のETSの厳しい規制にはブレーキを踏にで緩和し、企業への資金援助を拡大することで飴を配るということのようである。
イタリアの「勝利宣言」と、天然ガス依存が招いた構造的ジレンマ
イタリアのメローニ首相は欧州委員会のこの発表を受けて、以下のように勝利宣言している注6)。
「我々は欧州理事会において、いくつかのEU規則が生み出す歪みに対処するために加盟国が委員会と交渉する機会を得ることに成功した。これらのうちの一つで、私たちが要求していたものが、排出量の多いエネルギーに課税するETSであり、それは結果的に排出の低いエネルギーさえもコスト増を招いている。これは明白なパラドックスだ。私たちは電気代抑制を決めているが、それは欧州委員会の裁量に任された。欧州理事会の結論に書かれていることは、私たちがそれを得る機会を勝ち得たということだ。」(ただ具体的な内容は明らかになっていない。)
現状のEU-ETSでは、発電事業者は排出権の無償配賦を受けることができず、CO2排出全量に相当する排出権を市場ないしは政府からオークションで購入する必要があり、従って化石燃料を使って発電された電力には炭素コストが上乗せされている。イタリアのように発電の4割超を天然ガス発電に依存している国では、ウクライナ紛争(と中東危機)でただでさえ天然ガス価格が高騰する中、さらに炭素価格が上乗せされることで電気代が高騰している。
一方でそうした高騰したエネルギーコストに直面している多排出産業も2028年以降、従来ETS規則の下でベンチマークに基づき無償で配賦されてきた排出権が段階的に減らされていき、2034年にはゼロとなって炭素排出に全面的に課金されることになっている。
手ごろなコストで生産プロセスを脱炭素化する技術も目途も当面見込めない鉄鋼や化学などの多排出産業界とって、これは死活問題になりかねない。従ってEU-ETSの改革(=炭素価格負担の緩和)が欧州経済にとって深刻かつ火急的な課題になっているということが、ようやく今回の閣僚理事会で公式に認識されたということになる。
日本への影響:国境調整措置(CBAM)とGX-ETSへの波及
一方で閣僚理事会の結論で検討課題として挙げられているように、28年以降の無償配賦の漸次縮小のペースを緩めたり、2034年以降も無償配賦を残すという政策転換が今後はかられた場合、無償配賦の縮小とセットで導入される国境調整措置(CBAM)にも大きく影響してくることは日本としても考えていかなければならない。
CBAMは、無償配賦を縮小していく中で域内産業に課される炭素価格と同等の炭素価格を輸入品に課すことで、EU域内製品の競争力を維持することを意図した制度である。従って今後ETSの改革によってEU域内産業の炭素価格負担が緩和されるのであれば、輸入品に課される炭素価格調整課金(CBAM賦課金)も同時に縮小され、輸出国側への影響は緩和されることにならなければおかしいことになる。
日本をはじめとするEUへの輸出国企業はこの1年あまり、EUが次々と打ち出すCBAMの複雑な運用ルールへの対応と施行準備に追われてきたのだが、仮に28年から予定されている無償配賦削減のスケジュールが先送りになったら、CBAM課金も先送りになるはずであり、何のための準備だったのかということになってしまう。
日本がこの4月から稼働させるGX-ETSの導入の経緯では、このEUのCBAMに対処する国内政策という側面も議論されており、この夏にむけてEUで進められるEU-TESの改革がどういった展開を示すか、日本にとっても目が離せない状況が続くことになろう。
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注1)IlSole 24 ORE:”Meroni to EU: energy costs top priority. Urso: Suspend ETS pending review” 2026-2-26
注2)FinancialTimes:”Italy sets up fight with Brussels over carbon costs” 2026-3-1
注3)EURONEWS:”Ten EU countries revolt over carbon rules threatening industry ahead of key summit” 2026-3-18
注4)会議終了後に欧州委員会が発表した声明では「一人の指導者が約束を守らないため融資はブロックされたままである。しかし我々は何とかしてキエフにこれを届ける。」と結んでいる。
注5)https://ec.europa.eu/commission/presscorner/detail/en/statement_26_663
注6)Rai1.Good Morning:”Meloni “ETS absolute paradox” 2026-3-20
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