日本は核燃料サイクルを放棄するなかれ・その2 — 原子力の国際規制、米国の意図
36年前に日米でも激突、辛うじて米を説得
実は、この事前承認条項は、旧日米原子力協定(1988年まで存続)にもあったものだ。そして、この条項のため、36年前の1977年夏、日米では「原子力戦争」と言われるほどの激しい外交交渉が行われたのである。
時はあたかも、第一次石油ショックの煽りで日本でも、脱石油政策の一環として原子力発電への傾斜が加速していた時代で、国内に原発新設が相次いだ。それに伴って、ウラン燃料の効率的利用という観点から、再処理、プルトニウム利用(高速増殖炉開発)が国の原子力政策の基本に据えられ、茨城県東海村に動力炉・核燃料開発事業団(動燃=現在の日本原子力研究開発機構の前身)が比較的小規模の再処理施設を建設。1977年春には竣工し、いままさに運転を開始しようという矢先であった。
ちなみに、それまで、日本は、1953年のアイゼンハワー米大統領の「アトムズ・フォー・ピース提案」をきっかけに原子力開発に着手。以来米国の核・原子力政策に呼応して、1976年に核不拡散条約(NPT)を批准し、国際原子力機関(IAEA)の保障措置・査察を受け入れつつ、フランスからの技術導入により自前の再処理工場の建設に踏み切っていたのである。
ただし、自前の再処理が可能になるまでは、英仏と再処理委託契約を結び、使用済み燃料を専用船で運搬した。その結果生じたプルトニウムの一部はすでに日本に返還されたが、大半はいまだに英仏に保管されている。
以上のような歴史的背景と状況の中で、かつて海軍士官として原子力潜水艦第一号の設計にも携わった経験を持つジミー・カーター氏が1977年1月大統領に就任し、直ちに打ち出したのが、従来の路線を一変する新核不拡散政策であった。その2年半前にインドが「平和利用」と称してプルトニウムによる核爆発実験を成功させ、核不拡散体制が盤石ではないことが露呈していたことが、彼をして民生用の再処理禁止路線を決意させたわけだ。すでに佐藤(栄作)政権時代に非核三原則を国是として定め、原子力の軍事利用は固く封印し、平和利用に徹していた日本にとっては、甚だ不本意かつ迷惑な話であったが、冷戦の最盛期でもあり、常に世界の政治状況を俯瞰し、できるだけ各国に一律公平に対処することが外交の建前となっている国の大統領としてやむを得ないことであったかもしれない。
とはいえ、カーター新政策の適用第一号として、せっかく苦心して建設したばかりの東海再処理施設の運転に「待った!」をかけられ、「国難来る」とばかり、日本が激しく反応したのは当然であった。我が方は、福田赳夫首相と宇野宗佑科学技術庁長官兼原子力委員長(のち外相、首相)の下で挙国一致、正攻法で「再処理とプルトニウム利用は、資源小国日本のエネルギー安全保障上必要不可欠だ。日本は被爆国として非核に徹しており、再処理を行っても核武装や核拡散の心配は無用だ」と強硬に主張し続け、ついに米国から「2年間に限り、99トンまで」という条件付きながら承認を勝ち取った。(この辺の経緯については、GEPR掲載の拙稿「核燃料サイクルは安全保障の観点から止められない」参照)
裏目に出たカーター戦略
この2年間(1977–80年)には、カーター大統領自らの発案で、「国際核燃料サイクル評価」(INFCE)と称する大規模な国際共同作業が実施され、当時原子力発電に関係していた約50カ国の一流の専門家が総動員され、原子力平和利用と核拡散防止を両立させるための方策を求めて、集中的な議論を行った。実は、東海再処理施設の運転を米国がしぶしぶ認めたのは、同施設の運転で得られたデータを積極的にINFCE作業に提供し、米国の核不拡散政策の普及に協力するということが条件の一つであった。
当時原子力に熱心だったドイツ、さらに再処理ビジネスに関心のある英仏などとがっちりスクラムを組んで、日本は、INFCEという檜舞台で必死に頑張って、ついに初志貫徹に成功した。すなわち、「核拡散は所詮技術だけの問題ではなく政治問題である。厳格な国際査察の下であれば再処理、プルトニウム利用を行っても直ちに核拡散には繋がらない。原子力平和利用と核拡散防止は両立可能だ」という趣旨の結論を得ることに成功したのである。これはある意味で、米国の当初のシナリオに反しており、INFCEで再処理禁止の国際化、普遍化を図ろうとしたカーター氏の目論見は裏目に出たわけである。
そこで米国は、途中から方針を転換し、前記の通り、まず「核不拡散法」という国内法を制定(1978年)し、諸外国との原子力協力を行うための条件を一方的に定め、それに合致しない国との原子力協力(核燃料や技術の輸出など)を禁止する方向に政策の重点を置き始めたのである。そのため、既存の二国間原子力協定の改定が必要となり、日本にも協定改定交渉を求めてきた。
日本としては、現行(旧)協定の変更を必ずしも欲せず、核不拡散条件の過度の厳格化には反対であったが、結局「持たざる者」の弱みで、協定改定交渉に応じざるを得なかった。日米交渉はその後断続的に延々と続き、ようやく1988年に、従来の「個別的事前承認(ケースバイケース)」方式に替えて、「長期包括的事前承認」方式による新協定の締結に成功し、現在に至っているわけである。
オバマの「核なき世界」の壁
都合10年に及ぶ日米交渉を振り返って、筆者が外務省の初代原子力課長として直接交渉に関与した前半(1977〜82年)は、カーター政権の頑なな核不拡散政策で散々苦労させられたが、後半はレーガン政権(共和党)の原子力推進政策に助けられたという幸運な面もあった。
ところが、その後世界の核と原子力をめぐる状況は大きく変化し、近年とくに北朝鮮やイランの国連安全保障理事会決議を無視した行動の悪影響は甚大だ。就任以来「核なき世界」(2009年のプラハ演説)を標榜するオバマ大統領は、核拡散防止のためには再処理と20%以上の濃縮を禁止したいというカーター政権以来超党派で受け継がれてきた伝統の政策を堅持している。この姿勢は、彼が2013年6月ベルリンのブランデンブルグ門前で行った演説でも踏襲されている。
すなわち、オバマ政権は、今後原子力発電を導入する新興国に対しては、2009年初めアラブ首長国連邦(UAE)と締結した原子力協定(再処理、濃縮の放棄を明記)を「ゴールド・スタンダード」としたい方針のようだ。つまり、カーター政権時代に再処理権を獲得した欧州原子力共同体(ユーラトム)加盟国と日本、それに、4年前に米国との二枚腰、いや三枚腰の粘り強い交渉で、ついにその権利を獲得したインドだけを例外として、他のすべての国には新たに再処理権を認めないという方針を頑なに堅持しているのである。
もっとも韓国については、今後2年間交渉が継続されるので、その間に北朝鮮問題が全面的に解決すれば(その可能性は限りなくゼロに近いが)、米国が再考する余地はあるかもしれない。あるいは、全く新しい技術的または制度的方策が見つかれば、打開の道は開かれるかもしれないが。
ただ、日本の東海再処理施設とほぼ同じころ、韓国では朴正煕政権時代に秘密裏に核兵器製造を図ろうとした「前科」があり、さなきだに、北朝鮮の核計画に刺激されて自前の核武装を是とする世論が再び高まっているので、米国としては、そうした動きを容認するような形で韓国に再処理を認めることはできないだろう。核兵器用のプルトニウムが抽出されないような、全く新しい再処理方法が見つかり、その実用化が確認されれば、話は別だが、予見しうる将来その見通しはなさそうだ。かくして韓国のフラストレーションは今後とも続くと思われる。
もう一つの可能性として、1990年代に朝鮮半島から撤去されたと言われる米軍の戦術的核兵器の再持ち込みという方法もありうるが、そうなると北朝鮮が反発し、半島非核化は益々難しくなる。米外交の難しいところだ。さらに言えば、仮に韓国が何らかの形で核武装すれば、日本も非核政策を続けるわけには行かないだろうという判断が当然米国にはあるようだ。
(2013年8月19日掲載)
(その3は26日掲載の予定)(全4回)
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