脱炭素の逆説:水素社会は炭素なしに成立しない

2026年05月15日 06:40
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技術士事務所代表

shironagasukujira/iStock

水素でナフサを作る?

2026年5月、川崎重工業は決算説明会で「水素からナフサを生産する技術の提案を始めた」と発表した。橋本康彦社長は「水素を使ってガソリンやナフサをつくれると知らない人がまだ多い」と述べた。

川崎重工、水素からナフサを生産する技術を提案 原油の代わりに

この発表は、エネルギー政策の議論において見過ごされがちな重要な問いを提起している。

水素社会を推進するはずの企業が、水素を使って炭化水素(ナフサ)を作ろうとしている。脱炭素の担い手が、炭素を作っている。これは単なる皮肉ではなく、エネルギー政策の根本にある見落とされた前提を浮かび上がらせている。

ナフサとは何か——炭素と水素の結合体

そもそもナフサとは何か。化学的に見れば、炭素(C)と水素(H)が結合した炭化水素の混合物である。炭素骨格に水素が結びついた構造を持ち、その炭素鎖の長さと分岐によってガソリン・灯油・軽油などと区別される。石油とはすなわち、炭素と水素が地下で長い年月をかけて結合した天然の炭化水素資源に他ならない。

水素でナフサを作るとは、炭素と水素を人工的に結合させることであり、石油という天然の結合体を人工的に再現しようとする試みである。

ナフサは燃料ではなく、作るものの原料である。ナフサを分解炉(ナフサクラッカー)で約800度に加熱すると、エチレン・プロピレン・ブタジエン・ベンゼンなどの基礎化学品に分解される。これらがプラスチック・合成繊維・肥料・医薬品・塗料の出発点となる。炭素骨格なしに、現代の素材産業は成立しない。

日本のナフサ調達構造と現在の危機

日本の年間ナフサ消費量は約3,390万kLに上る。その調達は二本柱で成り立っている。

問題は、国産分も原料となる原油の約95%が中東由来であることだ。つまりホルムズ海峡の封鎖は、直接輸入(約1,356万kL)と国産精製の原料の両方を同時に遮断する。実質的に消費量の8割近くが中東依存という構造であり、これは二重の打撃である。

国内にはナフサクラッカーが12基あり、年間エチレン生産能力は616万トンを誇る。しかし米国と異なり、日本の設備の主原料はナフサであり、シェール由来エタンで代替できるインフラは整っていない。

現在、川下製品(ポリエチレン等)の在庫は約2ヶ月分とされるが、封鎖が長期化すれば石油化学の川下に連なる数万社の中小企業が連鎖的打撃を受ける。マテリアルバランスの観点から見れば、エネルギーの代替議論は可能でも、素材としての炭素の代替は現時点で存在しない

技術の実態——FTSという「枯れた知恵」

川崎重工の技術の核心は、Fischer-Tropsch合成(FTS)である。水素(H₂)と一酸化炭素(CO)を触媒反応させて炭化水素を合成するこのプロセスは、第二次大戦中にドイツが実用化し、その後南アフリカのSasolが数十年にわたって商業運転してきた、いわば「枯れた技術」だ。

川崎重工はトルクメニスタンで天然ガス由来の水素からガソリンを製造するプラントを納入した実績を持ち、今回はその技術の応用提案である。

FTSにおいて水素は何をしているか。炭素骨格を組み立てる「還元剤」として機能している。H₂はCOと結合してはじめてナフサになる。水素単独では何も作れない。炭素なしに、水素は素材にならない。

CO₂を原料にする場合も同じ構造

「ではCO₂を直接使えばよい」という発想もある。再生可能エネルギー由来のグリーン水素とCO₂を反応させて合成燃料(e-fuel)やナフサを製造する——いわゆるPower-to-X構想だ。欧州がSAF(持続可能な航空燃料)の文脈で追求しているルートである。

しかしここでも、炭素は排除されない。

CO₂は熱力学的に極めて安定な物質(標準生成自由エネルギー ΔGf° ≈ −394 kJ/mol)であり、FTSに直接投入できない。まず逆水性ガスシフト反応(RWGS:CO₂ + H₂ → CO + H₂O)によってCOに還元し、そのCOと水素を反応させてはじめて炭化水素が得られる。CO₂を原料とする場合も、経路の途中で必ず炭素(CO)の形に戻さなければならない。炭素は最後まで必要とされるのだ。

加えてRWGS段階の吸熱ロス、FTS段階の熱効率(理想条件下でも50〜60%程度)、グリーン水素の製造コストという三重の壁が、この経路の経済性を根本から制約している。

「知られていないこと」の本質

川崎重工の社長が「知らない人が多い」と言ったのは、水素でナフサが作れるという技術的事実についてだ。

しかし、あまり言及されることがなく、より深く知られていないのは、次のことではないか。

炭素は、文明の素材基盤である。

炭素を排除しようとするシステムが、炭素を作ることで成立している。水素社会を推進するための技術でさえ、炭素骨格を必要としている。これを「逆説」と呼んでもよいが、より正確には「見落とされた前提」である。

炭素共生という視座

「脱炭素」という言葉は、炭素を文明の敵として位置づける。しかし現実のエンジニアリングが示すのは逆だ。炭素は排除すべき敵ではなく、共生すべき素材基盤である。エネルギー政策の議論においても、炭素を「排出削減の対象」としてのみ捉えるのではなく、「素材・原料・化学反応の担い手」として正当に位置づけることが求められる。それが「炭素共生(Carbon Symbiosis)」という視座の核心である。

川崎重工の発表は、奇しくもその事実を自ら証明した。ホルムズ封鎖によるナフサ危機は、その証明を現実の緊急事態として突きつけている。

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